初めて冴えカノfineを観たときの感想

 Twitterだけだとなんだかな〜と思ったのでブログを作ろうと思い立ちました。先輩や同期や後輩のブログを見ていて、なんとなく憧れてしまったというのもある。これから何を書くかは全く決めてないけど、ダミーテキスト的な文章を置いておいて、とりあえず箱を作っておこうかなと思った。つまるところLorem ipsum dolor sit amet......みたいな文章を置いて、形だけ作っておこうということです。

 と、思っていたところ、

とのご意見を頂いたので、fineの感想を置いておきます。

 Lorem ipsum......というテキストは、詳しいことはよく知らないのですが、賢い人は大きい喜びを得るために目の前の喜びを拒むこともある、というような趣旨の文章を元に出来上がったダミーテキストらしい。すこしfineを想起しませんか。

 以下、ネタバレを含みます。

 

本文(2019/10/27)

 

・劇中歌に「ラブストーリーは突然に」があったので、一瞬「あれ、流れたっけ?」と思った。


・あんなに長いアニメのCパート(?)初めて観た。


・2015年の暮れ頃、二度目のセンター試験を直後に控えた僕は、受験前の謎の読書欲に背中を押されて、その年アニメをリアルタイムで追いかけていた『冴えない彼女の育て方』の原作1巻を手に取った。一年前は俺ガイルを通して読んだりしてたら第一志望に落っこちたから、同じ過ちは繰り返すまいと思っていたのに、やっぱりその年もやってしまった。
 結局止まらなかった。シリーズの既刊を全部読破して、別の本を読んで、センター試験の前々日には本屋から本屋へ漂流して「いまさら翼といわれても」後編の載ってる野性時代を探し歩き、そのせいでもう一回〈古典部)シリーズを通読し、もう一回冴えカノを通読したりした。地元から離れた大学を受けるときは、冴えカノも一緒に持って行って、勉強の合間に繰り返し読んだ。試験場にも持って行って、好きなシーンをパラパラと繰り返し読んだりした。別にそんなに勉強に疲れていたわけでも嫌だったわけでもないし、正気を犯されていたわけでもないけど、でもなぜかそうやって毎日とにかくページを繰ることばかりが大事だった頃だった。浪人時代の終わり頃は、そうやって毎日何かしらの本を読んでいて、そのサイクルを回し始めたのは冴えカノだった。手のひらを打つ間に過ぎていったような浪人時代の最後だけは、その時読んだ本で彩られていて、今となっては記憶がぼんやりしているあの一年の中でも、そのころだけは妙に毎日が楽しかった。
 棚町薫ではないけど、冴えカノの悪いところ100個は言える。けど、好きなところは101個言える。
 というわけで、どうしても距離を置いて見たり語ったりすることのできない作品の一つが、冴えカノなのです。
 だから、下に書いてあることは全て、論理も破綻しているし、言葉の意味も通りづらいし、まとまりを欠いているし、なにより、読むに堪えないものであることを断っておきます。
 ただ、身近に、公開初日に観に行った人がおらず、まとまりを欠いたまま行き場を失った感想を垂れ流すためにはこれしかなかったのです。タイピングをするという行為に救いを求めている。


・シリーズを追う中で、一つ重大な懸念事項があって、それは「この先シリーズを追っていくと、果たして加藤恵はどこまで『可愛く』なってしまうのか」ということだった。今考えるとどうかしてるわと思うけど、当時の僕は本気でそれを心配していた。7巻がすでに出ていたからこその心配事だと思う。7巻のラストは良かった。アニメにもなっていますが、原作が特にいい。視点人物と読者の同一化とかにはあまりピンとこないけど、それでも安芸倫也という人間が思う加藤恵の可愛さにはそれなり以上の説得力があった。当時はGirls Sideというものが1巻までしか出ておらず、英梨々と恵が思いを打ち明けあうシーンも、そこだけ三人称になっていたと記憶してる。人にお貸ししたままなのでいま確認できず、これは不確実な情報ですが。そういうシーンとシームレスに加藤恵安芸倫也の関係がひと段落するシーンが繋がっていて、思えば、そういうシーンはあれ以降なかったかもしれない。話が脱線した。とにかく。それまでも片鱗を見せていたにも関わらず、それまでの胃の痛くなる展開と、それらがそのままカタルシスへと繋がり、その先に待ち受けていたあの加藤恵というキャラクターは、本当に可愛かった。そして、同時に恐怖した。どこまでいくのか。安芸倫也のかかげる「最高にキュンキュンする女の子」とやらを単なる作中のお題目だと軽く見ていた僕は、7巻の、当たり前といえば当たり前ですが、主人公の予測をカミソリの横滑りのように鋭く外れて行ったあのヒロインを目撃して、呻き、悶えたのです。それは、現状に対する反応ではなかった。これから、幾つにも分岐していく未来のうちから一つ、また一つを選び取っていくうちに、安芸倫也の掲げる理想論を、僕たちも共有させられてしまうのではないか、そういうことを恐れた呻きだった。


・読み返したら、ここは特になにいってるかわからないし、めちゃくちゃ恥ずかしいところだったので飛ばしてください。
 安芸倫也の行動は、ある意味では狂気じみている。だっておかしいでしょ。一目惚れした相手をモデルにゲームを作ろうと思い立つ。そこまではいい。でも、ゲームの側を現実に近づけていく、という方向性の努力と並行して、現実の恵を「理想のヒロイン」という、オタクのあいだでさえ、緩やかな共通理解があるのかどうかわからないような、コンセプトとも呼べない虚像へと、現実の恵を近づけていこうとする。つまり、加藤恵という存在を、ゲーム内のリアリティの中へと落とし込んでいこうとする。ゲームと現実という二つの世界の両側から、加藤恵という存在を、Yの字の軌跡で漸近させていこうとする(なんか変な言い方になっちゃったな)。
 それに輪をかけておかしいのが、丸戸先生の使う楽屋オチである。毎巻毎巻、「前回のあらすじ」みたいなノリで「〇〇の時」って言葉に「X巻Yページ」ってルビを振ったりして、登場人物が、あたかも自らが小説の登場人物であるとわかっているような言動をする。だからこれはむしろ、小説の中と外に強固な峻別を施しながら、やはり、その内側と外側それぞれの人物の認識をYの字の軌跡で漸近させていくような所業だなあと思う。
 こんなまどろっこしい言い方をしなくてもあからさまにわかることだけど、冴えカノという作品は「ここ(読者)⊃倫也や恵のいるところ⊃Blessing Softwareの作った作品世界」という三層の世界に分かれている。僕たちは倫也たちBlessing Softwareがいくつもの修羅場を超えていく様を、作中でなんども見る。その度、倫也はゲームの中のメインヒロインがいかにすれば良いキャラクターとして描けるのかを語る。そして、時にはそういうことを恵に求めたりする(いや、こうやって振り返って見ても、やっぱりどうにかしてる……)。やがて、倫也と恵がお互いを意識し始めてからは(特にこの映画でもあからさまに描かれていたように)、作中人物のあり方に仮託しながら、お互いのあり方について語り合うようになる。そして、彼らが都電の駅で恋人つなぎをするあの名シーン(原作で読んでも良いシーンです)あたりで、ゲームのシナリオは二人の過ごした時間を追い越していく。倫也と恵のあとを追うように作られてきたゲームシナリオは(あるいは、ゲームシナリオに先立つように走ってきた二人の関係は)、そうやって道を分かっていく。そうだな、追い越すというより、分かつといったほうがいいはず。倫也の告白のセリフだったり、入場特典のセリフでもある通り、これまで作中では切れ切れに顔を出しては消えていき、少なくとも倫也の一人称で語られることの多い本編では彼の語りの表層にはあまり意識されずに押し隠されていた、「加藤恵は倫也のいる現実においてはヒロインではなく人間である」という、考えてみれば当たり前の事実が、シリーズの後半になってようやく作品の表層にポップアップする。
 で、こういう、「倫也や恵のいるところ⊃Blessing Softwareの作った作品世界」という二つの層の間で行われている通信を、小説やアニメの外側から見てる僕(たち)は、それこそ丸戸史明先生と深崎暮人先生が描く加藤恵の「可愛さ」によって、安芸倫也に同調する。「「倫也や恵のいるところ」から見た「Blessing Softwareの作った作品世界」に相似な「「ここ(読者)」から見た「倫也や恵のいるところ」」の関係の間で、僕は倫也が巡璃をいかにして可愛く描くか、と頭を悩ませている様を参考にしながら、加藤恵が「可愛い」ことを認識する。いや、もちろん、小説やアニメで描かれている加藤恵はすごく可愛いし、倫也とのやりとりを見てはいちいち悶えていたんだけど、それはそれとして(たぶんそれは倫也にとっては、巡璃や、その他のギャルゲーのヒロインを可愛いと思うことに近いと思う)、倫也が恵を思う様を、僕はその一つ上の層から、この世界に存在しないはずの虚像に対して同じように実践しているような気もちがしていた。倫也は(僕は)最初、ゲームの登場人物(加藤恵)という一つ下の層を通して、加藤恵(虚像)というおなじ層にいる存在を捉えようとした。やがて、倫也は両者を混同し(メールの変換ミスとか)、やがて、再び両者の峻別に成功すると、加藤恵と巡璃は道を分かつ。倫也が告白し、それを恵が受け入れたあの二又の道で。倫也の左側に立つ恵は、キスとともに一歩踏み出し、右側の道へと倫也を押し出した。左の道は、巡璃だけが行く道だ。未来は分岐する。選び取った道だけが現実となる。ヒロインの行く道を離れ、自らのゆく道へと移った加藤恵と、ようやく自らの思いを吐き出した倫也によって、Y字型に漸近してそして再び離れつつあった二つの存在は、決定的に訣別する。倫也たちのいる世界に、一人だけの加藤恵が戻ってくる。
 こうやって大仰に言ってみたところで、そもそもの倫也の行動がわけわからなかったのだ。この結末は想像できた。むしろ、倫也の認識の中でヒロインと合一したままの加藤恵に告白し、それがハッピーエンドみたいに扱われていたら、ちょっとひいたと思う。僕たちは、本編で描かれたような結末を当然のものと思い、予想し、待ち望んでいた。僕たちはすでに倫也と恵を、何巻も前から追い越して、ゴール地点でじれったい二人を待っていた。この世に存在しないはずの虚像とともに。虚像と加藤恵は、恵と巡璃と同じような道のりを経て、合一し、訣別した。この虚像になんと名前をつけるのが良いのか、それだけがわからなかった。遅れてきた倫也と恵の二人は、シリーズ終盤、あるいはこの映画の中で、それに答えをくれる。僕たちも、それを初めから知っていた。三つの層は、真ん中の層に存在する、恵という存在の可愛さによって繋がれていた。あとは、ふたたび真ん中の層からのGOサインを待つだけだった。焦らされ焦らされた挙句、ようやくでたGOサイン。僕たちは虚像を加藤恵なのだと思う。それは、彼がギャルゲーをプレイする時に感じる没入感に似ていることなんじゃないかなと思う。
 加藤恵という、作中の言葉を使えば、フラットな「女の子」の妙な生々しさは、ここから来てるんじゃないか、と、僕はそんなことを思ったりした。
 それだけじゃない。
 ことここに至って、倫也がずっと叫び続けてきた言葉が再びリフレインされる。「最高にキュンキュンする女の子」という言葉の意味をここで、原作を読み終わり、待ちに待った劇場版を観終わった僕たちは、その言葉がただのお題目ではないことを知っている。確かにこの世に生きているようにさえ感じられる、加藤恵という存在を通して、僕たちはわからせられてしまった。彼の言っていた言葉が、何を意味するのかを。
 決して勘違いして欲しくないのは、僕たちが加藤恵相手に恋愛感情を持っているとか、そういうことではないのです。そういう勘違いを避けた向こう側で、実感として倫也の目指していることが僕たちにも理解できる。そんな感じのことを言いたいんです。でも、言葉がまとまらないし論理も破綻してるし文章もめちゃくちゃだから、勘違いされるような言い方しか今はできていない……。そもそも、加藤恵の可愛さがどこからきてるかとかそういうことを考えること自体がすでに詮無いことなのかもしれない……
 何もうまくかけない。



【ここまでの要約】加藤恵がかわいいということを僕たちはわからせられてしまった。




・詩羽先輩と英梨々がBlessing Softwareを離れることを決意し、紅坂朱音のもとで働き始めるあたりの話にも良い話が多く、「そして竜虎は神に挑まん」とか大好きなんですが、テレビシリーズでそのあたりの話はほとんど全て終わってしまっていたことに、映画を見るまで気づかなかった。意外とアニメ2期ってたくさんのことをやってたんだなあ、と、改めてびっくりしてしまった。繰り返すようですが、7巻最後がシリーズの途中に来るあたり、どれだけ内容に富んでいたかが思い出されます。
 恵、英梨々、詩羽という、最初のメンバーたちの関係の変化もシリーズを通してうまくて、それは映画自体の感想から離れるので割愛するけど、英梨々と詩羽が自らがどういうポジションに立とうとするのか、その定義づけと決意をするシーンも、やっぱり改めて映像で見ると良いものだ……。特典小説では「天気の子に出てきた坂」と言われてたりするけど、これに関しては天気の子で見た時に「冴えカノだ!」となったので、「逆! 逆!」と思ったりした(偽物語にもでてきたような……)。倫也の追いかけ続ける背中であろうとすること、それが二人の決意だったけど、そこにきて安芸家と澤村家の位置関係がああやって象徴的に使われていたことに、そういえばなんで気づかなかったんだ! と自分の鈍さに驚いたりした。もちろん、もはや後戻りできなくなってから、詩羽先輩に指摘されてようやく、自分たちは倫也の横に立つことはできず、自らの思いゆえに、追いかけられ続ける存在としてあることを宿命づけられてしまったのだ、ということに気づいた英梨々も相当の鈍さなわけだけど、家の位置関係云々とかは作中人物にとって象徴的な意味は持たないからなあ……。脱線した。二人がそうやって出した結論は、振り返ってみれば、きちんと各々と倫也との間に起こった色々のことをきちんと踏まえた結論になっていて、そうした結論が、倫也が以前と違い、「追いかけ続けてくる」者であるのだ、という現状認識と信頼の上に立脚しているあたりが、ただの分岐ではなく、なおのこと説得力があったと思う。ストーリーは分岐して、ゲームに例えるなら恵ルートに入った。でも、彼らの現実では実はそうじゃない。倫也自身が選べばそれで決定ではない。ゲームと彼の現実を近づけようとしたりした倫也が、そして、そうした倫也をなんだかんだで許してきた二人の間におこったことがこの一種の突き放すような離別だったからこそ、彼らが2クールと映画1本かけて通ってきた葛藤の出口として、彼らのおそらくこれからはもう描かれないであろう未来の入り口として、祝福できたと思う。
 映画では主に倫也と恵の不和と和解が主な筋になっていた(と僕はかんじた)けど、この不和だって、裏を返せば倫也が昔とは確実に変わっているゆえに起こったことでもあるわけで、ままならんね、といった気持ちになった。いや、本当はそんなにフラットな気持ちではいられなかったわけで、それをそのまま言葉にするのは恥ずかしいので静かにやり過ごそうとしています。詩羽先輩と英梨々の力を誰よりも評価し、信じているのは倫也だけど、しかし、恵への義理を果たすには、その倫也の力を借りるわけにはいかない。恵の側から見れば、倫也がそういう人間であることは重々承知の上で、しかし、実際にそういう行いを目にするのはつらいところがある(大幅にはしょってます。説明する力の不足と、タイピングするのさえもどかしい気持ちが合わさっている)。倫也の本当の本当に意図に基づくのかどうかは映画ではぼかされたままだったけど、巡璃となるはずのところが恵となっている原稿を恵が読んで、あの二又の道のシーンへと至る。結局、恵は倫也を許しているが、それはなぜか、という謎に答える形で、恵が美智留と出海に心中を語るシーンが差し込まれる。なるほど〜と観ているこっちは思う。英梨々と詩羽先輩が恵との間に線を引いたように(これまでも察せることはあったし、何より二期の終わりらへんではすでに明らかになっていたけど、きちんと明確にそれを言葉にして、それがそのまま結論となったのは映画の中で)、恵の側からも英梨々と詩羽先輩の間に線を引いていた。もちろん、その線を乗り越えようとする努力は今までもなんどもなされてきたし、実際に和平に至ったこともあるけど、完全ではなかった。やはり、線の向こう側に英梨々と詩羽先輩がいて、そちら側に行こうとする倫也に対する思いを愚痴という形で語るシーンで、ようやく、みる側の推測という形でなく、はじめて、加藤恵という人物の思いに形が与えられた(Girl’s Side 3とかではここら辺の流れが若干変わっていて、恵と詩羽先輩が直接電話で話したりしている。何れにせよ、加藤恵という人物が倫也に対する思いを吐露するシーンは、すごく、ぐっとくる)。それまでも、加藤恵が倫也という人間をどう捉え、どう思っているか、ということは意外とたくさん描かれてきたわけですが(それこそフラットな姿の後ろに”黒い”恵が出てきたり)、やっぱり劇場版の長い尺の中でもかなりの頻度でそういうことが示されていたと思う。焼肉屋さんでのブラックな恵や、サンドイッチを素早く頬張るところから始まって、英梨々と詩羽先輩がBlessing Softwareを離れていたこともあって、劇場版では途中の時間帯は、ただひたすら倫也と恵の会話だけで進んでいた。良かった。ただひたすらに良かった。良かったという言葉を繰り返すことで感想が伝わるなら一千回でも一万回でも繰り返したい。良かった。
 ただ、このまま起承だけを続けていたら、たぶん、恵はヒロインのままだった。ゲームの登場人物の挙措や思考に仮託して自らのあり方を語ることしかできなかったあの二人が、真の意味で向かい合うことはできなかった。だから転が必要だった。わかる。めっちゃわかる。わかるけど、転なんていらなかった、という恵の気持ちもわかる。こういう展開を書かせると冴えカノ(というか丸戸先生)はめちゃくちゃうまくて、シリーズ通して何回も胃が痛くなったわけですが。そこで、作品中でなんどもリフレインされていた「特別」という概念が挿入されて、もう一度倫也という人間が、いまは追いかけ続ける者であるという事実が整理される。現実、素晴らしい才能二人に惚れ込み、その二人のために大阪まで行くし、紅坂朱音と近づいて叱咤激励されたり、何とかしてはるかかなたの背中に追いつこうとする。そうではないという自己認識がある恵にとって、それはある種の裏切りにも見える。わかる。ここで、新生Blessing Softwareで共同の代表になり、一見お互いへの思いと製作しているゲームへの思いの関係が相似であるような、倫也と恵のスタンスの違いと相似店が、はっきりと整理された形で示される。いや、もちろん、倫也と恵は違う人間で、大事に思うものやそれに対してどうやってアプローチするかとか、そういうことも全部違うんだけど、それでも、お互いへの思いが根底にあるなかで、それをゲームへと託しながら作ってきた。そこにおいては、はっきりと相似で、対象に見えた形だけど、ゲームという、才能の発露する場所であるものに対する考え方が違った。辛い。そういうの辛い。辛いんだよ。結局、ここに関しても不理解があった上で、それでも、澤村家を離れて安芸家へと戻った倫也と、上がり框に腰掛けていた恵との会話を通して、双方が妥協点へと歩み寄る。倫也が送りつけたテキスト、あの変換ミスが意図的かどうかは映画版では触れられていなかった(はず……)けど、少なくともあのテキスト全体は倫也の思いの丈を綴ったものだった。紅坂朱音が褒めたり貶したり、詩羽先輩が笑ったり、そういうテキストだったわけで、これはいわば、恵と異なるスタンスの自分が、それでも寄り添って行こうと努力しようという、倫也の宣言でもあったわけです。あったわけなのか? それが、結局、すべての根源であった考えを捨て、「三次元の存在である加藤恵を愛する」ということであった。逆に、加藤恵もまた、特別じゃない、でも、二次元のヒロインとも決定的に違う自分=恵でありながら、それでも「特別」に焦がれる倫也の横に立とう、と決意する。これもまた歩み寄りの一つのように思われます。加藤恵は愛想を尽かしたふりをして、倫也をおいてあの坂を降り始める。倫也もその後を追う。言葉の上では冷たくして離れていく人間と、それに追いすがる人間に見えるけど、ここはもうそうじゃないじゃないですか。完全にプロレスじゃないですか。二人の間ではすでに完全なシナリオが共有されていて、そのシナリオにのとって、とりあえず和解の儀式を行なっている。今までも似たようなシーンはいくらでもあったけど、ここでもそのコード、その様式美に則って、最後の和解の儀式を済ませようとしている。すごくキュンキュンきた。2019年最キュンかもしれない。あのシーン、大好きなんだ。大好きなんだよ。二人はすでに和解を済ませている。でも、やりとりを、言葉を欠いた和解は、不安定で、独りよがりである可能性をはらんでいる。今までの経験から、二人はそれを学んでいる。だから、いつも通りに。加藤恵はフラットさに包んだナイフで倫也を刺すし、倫也はそれに情けなく追いすがる。ふりをする。お互いが真に和解へと到達したことを、いつものやりとりの成立をもって確認する。その過程の産物が、お互いの思いをお互いが知っているという状況だった。だから、今度は告白というコードに則って、お互いの思いを伝え合うだけだ。ここに至って、ようやく、物語は分岐する。加藤恵ルートへ。倫也は恵に告白をする。美智留でも出海でも英梨々でも詩羽先輩でもない、加藤恵ルートへ。恵はそれを一旦、保留する。自分は面倒臭い存在だ。本当に、二次元の存在とは違って、三次元の面倒臭い存在でいいのか、と問う。これは、問いではなかった。答えはわかっていた。ただ、明確に言葉にして伝える必要があった。これは宣言文だった。この言葉を以って、ルートは再び分岐する。巡璃と別れを告げて、恵ルートへ。ヒロインとの重ね合わせだった加藤恵は、晴れて、外でもない加藤恵という人間として再定義される。二人は歩み寄りの帰結としてキスをする。初めは倫也から。次は恵から。
 そして、タイミングを合わせて、二人同時に。


・めちゃくちゃ好きだった。あのシーン、本当に良かった。見ることができて本当に良かった。
 だってさ、今度はタイミングを合わせて、せーの、じゃないんだよ! いや、それで正解なんだけど! 僕は胸を押さえ、隣の観客はうめき声をあげていた。もうダメなんだ。安芸倫也加藤恵という存在が、完全な和解を遂げた。その事実だけで、もうしんどいんだ。それなのに、追い打ちをかけて告白シーン。もうダメだ。最高だ。助けてほしい。あれこそが救いだった。あれもまた一つの救済だった。近くにいるようで、実は次元の向こう側、ある意味ではこの世界のどこよりも遠いところを通して会話していた二人が、ようやく、本当にようやく、お互いがそうでなくなったことを確認した。ありがとう冴えカノ、ありがとう劇場版。これが見られただけでも冴えカノファンとして幸せです。


・和解が過ぎてもゲーム製作は続く。ルートが分岐しても過去は変わらない。ハーバート・クウェインの作品みたいに過去が分岐したりしない。
 ゲーム製作の方は、本当に今回は修羅場感が薄かったですね。なんだかんだで完成しました、という感じで、今までのアニメシリーズよりも原作よりも修羅場感は薄い感じ。でも、それでいい。昨年の失敗を乗り越えてるから、ゲームは完成するだろう。それは知っている。ゲームの出来がどうなったのかも、あんまり触れられてなかったですね。強いて言えば、あのゲームのタイトル自体が『冴えない彼女の育て方』だったことから、ゲームの出来を汲み取ることもできるでしょう。たぶん、あの世界の人たちは、この世界の僕たちのように、大きな満足感と少しの心地よい虚脱感を感じたはずだと思う。良いゲームに仕上がったんだろうな、ということが、この作品に対する満足感から類推することができて、いや、これは本当にいいことだと思います。
 過去に関しては、英梨々の端的なセリフ「私のこと、好きだった?」がとっても鋭くて好きだった。倫也の謝罪だったり、それをうけた英梨々の答えだったり、大事なところの周囲をぐるぐると回りながら、核心に手を伸ばさず、でも、手を伸ばさないながらに大事な下地を固めるあの会話も好きだったけど、なにより、それに続く英梨々の「好きだった?」が、過去の恋や、わだかまりや、それを乗り越えた努力や、それらすべてを「過去として」未来へと連れていく、鋭い鋭い一撃だった。過去なんだ。全ては過去なんですよ。詩羽先輩は、ずっと前に、過去との決別を、ありえたかもしれない未来に手を振ってさよならを済ませている。いわば彼女は、いつ英梨々も同じように、別の未来にさよならを言うかを見届けるそんざいだったわけです。でも、なかなか英梨々はそれをしなかった。未来はいくつかに分岐していくけど、その根っこは常に一つだけなんだよ……。詩羽先輩から「覚悟することよ」と言われ、直後はそれを認められなかった彼女が、それでも、もう引き返すことができないことを認め、分岐し、決定した一つの未来に向けて進んでいくことを決めたんだな、というのがあのセリフから辛いほど感じられた。恵こそが倫也の隣を歩むひとであることを、英梨々は認めたはずで、だからこそ、英梨々と倫也との間に存在するいかなる恋やそれにまつわるわだかまりも、一つだけの過去に置いていくわけにはいかなかった。過去と未来は普通なら連続で、何かしらの儀式を持って、それらは寸断される。自分は倫也のことを思っていた。倫也も自分のことを思っていたであろう。だから、英梨々は問うた。「私のこと、好きだった?」もう、全ては過去のものである。倫也は英梨々に告白をすることはないだろう。だから、せめて、過去形で聞かせてほしい。倫也の答えを。ルート分岐後にも、この、最後に残った、希望のふりをしたわだかまりを引きずるわけにはいかない。なぜなら、恵こそが倫也の隣を歩く人間だから。英梨々のこの問いかけ、本当に辛いけど、本当にきらきらしてるんだ。アニメの画面もああやってきらきらしてたけど、本当に良かった。本当に良かったんだよ……。過去形の問いかけだから、答えもまた過去形であるはずだ。こうして、緩やかにつながっていた過去といまを、英梨々は一つの質問で切り離して見せた。あまりにもその手際が華麗だった。恵と倫也が並んで歩んでいく「いま」を、倫也に追いかけられながらすごすことになる英梨々は、そうあろうとする覚悟を詩羽先輩の言葉によって決めた。だけど、それと同時に、倫也に対して想いを寄せていた過去も一緒にその未来へと連れていくために、過去と現在を切り離す儀式を行った。起死回生の一発だと思う。大げさな言い方をすれば、英梨々の思いは死ぬことを免れた。少しも色あせることもなく、ただ、永遠にいまと接続することもなく、好きだ(った)という思いを抱き続けて倫也の先を走り続けるという、英梨々なりの抵抗と、抵抗と同居しうる答えだったんだと思う。本当に、本当に良かった。


・そのようにして、EDがやってきた。


・エンドロール後のパート、アニメ映画でもCパートって呼びたくなってしまうのでCパートって呼びますが、アニメ映画であそこまで長いCパート初めて見たな……
 一瞬ドキッとしたもんな……。あれは原作にはなかった……なかったはず…………。読み落としとかはないはず……。めちゃめちゃ辛い感じになってて、「見たことないぞ!?」ってビビったので、もしかしたらあれもまた本編の続きで、未来編みたいなのがあるのかと本気で信じ込んでしまった。ああ言うふうにオチて、本当に良かった。アニメシリーズとかだと詩羽先輩の声で語りが入るやつですね。
 いやもう、あれほど大団円って言葉がぴったりくる終わり方もなかなかないよ……。最後の締め方まで最高だった。なにより、キッチンの「枠」の使い方、あれは天才の所業だよ……。ちらちらと結婚指輪が映り込むし、表札は映るし。ありがとう……ありがとう…………。冴えカノのファンでよかった。本当に良かった。ありがとう……
 今度こそおしまい、の文字の後ろ側で「かんぱーい」「おつかれさまでーす」の声が入るけど、あれ本当に声優の方の打ち上げっぽい感じの声で、丸戸史明がよくやる楽屋オチみたいな文体を映画でやるなら、なるほど、例えばこう言うやり方になるんだな、と思った。
 本当に、今度こそおしまい、なんだな……

 ずっと冴えカノを追いかけてきて本当に良かった。
 良い映画をありがとうございました。


・ということで、一回見た感想はここまで。全然感想っぽくないな……