関宮に行きました(あるいは「安寿と厨子王ファーストツアー」について)

2022年11月19日、兵庫県養父市関宮に行った。

 行こうと思い立ったきっかけは米澤穂信先生の講演会『山田風太郎ニヒリズム』を聴くためだった。

 京都からだと山陰本線を延々乗り継いで三時間、さらにそこからバスに乗らないとたどり着けない遠いところだけど、しかし、山田風太郎記念館があるということでかねてから気になっていたのだ。

futarou.ez-site.jp

だから、米澤先生の山田風太郎賞受賞記念講演会があると知って一も二もなく今回の旅行を決めた。遠く、そしてなかなか足の向かない場所に行くには、ふっと通り過ぎていくきっかけの背中に飛び乗るしかない。幸運なことに、僕はその背に飛び乗ることができた。思い切って良かったと思う。養父から城崎へ抜けての小旅行は久しぶりで楽しかったし、道中様々なひとにとてもよくしていただいた。短いが記憶に残る旅行になったと思う。

 しかし、このブログ記事は旅行記ではなく、また、講演会録を詳しく書き起こすものでもない。僕がいかなる旅行をしたかに興味のある人はあまりいないだろう。そして、講演会録は勝手にここに書き起こして良いものではないだろう。また何より、僕はまだ山田風太郎作品をまだ多くは読めていない。つまり、山田風太郎に関するひとつの評論を記録するに適格ではない。つまり、まだ自分は講演会の内容を正確に書き起こせるとはとても思えない。

 だから以下では、あくまで関宮で見て、そして聞いたことをきっかけに、ここのところずっと考えていたことを書き残すに留めようと思う。(以下敬称略)

 

「君はニヒリストか」という江戸川乱歩の問いに、山田風太郎は「そうではありません」と答えたという。

 では、山田風太郎の作品に吹く虚無の風はどこからくるのか、ニヒリストではないなら、山田風太郎とはいったいいかなる作家なのか、いかにこの世界を見ていたのか、という問いにひとつの答えを与えようというのが講演会の主な目的だったと理解している。その答えとそこに到る道筋において米澤は、山田風太郎の作品の多くが「悪の凱歌であり」、「運命に人が弄ばれる」ことを描く理由が、戦争に召集されたものの肺浸潤によって出征を回避してしまったという体験によるサバイバーズ・ギルトにあると断言してしまうのは簡単だが、しかし、彼の経験が彼の小説を規定したのではない、と判断した。山田風太郎山田風太郎自らの考え、自らの人生観を自らで打ち立てたからこそ、かような小説を書き得たのだ、というのが米澤の主張であった。

 この点が気になったのは、決してこの主張自体を云々したいからではなく、この主張を支える小説観を、我々が米澤作品を読むためにお借りすることはできないだろうかと思ったからである。

 米澤のエッセイ集『米澤屋書店』には、これまで書かれてきたいくつものエッセイを一冊の書籍にまとめるにあたって、新たに書き下ろされたエッセイが冒頭と末尾に収録されている(「ご挨拶より本の話をしませんか」「ご挨拶より本の話をいたしましょう」)。

 国内および海外の様々な長編や短編について触れた文章の中で、米澤は作家としてデビューする前の思い出とともに『六の宮の姫君』に触れている。作家となる前、しかし、物語を作って生きていこうと決意した後、ミステリが結局「殺人と推理の話」に帰結してしまうのであれば、それは生涯を懸けて取り組むに値するものなのか、米澤は不安を抱いた。

それは、本当に広い世界と向き合っていると言えるのか。

そうした時、米澤は『六の宮の姫君』を読み、ミステリを書いて生きていこうと決意する。

『六の宮の姫君』で書かれていたのは、明らかに、文学の冒険です。それでいて、間違いなくミステリだった。これが何を意味するか、──学問はミステリになりうる、ということです。学問というと高踏的ですが、私が言いたいのは要するに、好奇心のことです。知りたいという欲求と知るための方法を体系化したものが学問で、それがミステリになるならば、人間が何かを知りたい思う時、それは凡そミステリたり得るということになる。

『六の宮の姫君』は、ミステリで描けないものは何もないということを証明したのです。

この世界でミステリを書くということの効能を掴みかねていた(『六の宮の姫君』を読んだ当時の)米澤は、『六の宮の姫君』を読み、そして、ミステリを通して「広い世界と向き合」うことができると悟った。(あくまで、今ではそうは考えていないと文中で念を押しつつ)当時の米澤が抱いていた「ミステリを通して広い世界と向き合うことは果たして可能なのか」という懸念を『六の宮の姫君』は払拭した。「人間が何かを知りたいと思う」こと、あるいはそのために成立した体系である「学問」を通して、ミステリはこの広い世界と向き合うに足る手段となることを、『六の宮の姫君』は米澤に示したのである。

 学問という語に着目すると、朝日新聞の読書関連メディア『好書好日』に掲載されたエッセイ「さあ神を選びたまえ」(同書にも収録)において、マックス・ウェーバー『職業としての学問』について書いていることに思い当たる。米澤はこのエッセイの中で、『職業としての学問』について触れながら、自らにとっての学問の位置づけを語っている。

book.asahi.com

学問はあなたが(私が)ある立場を選ぶとき、その根拠を明確にすることができる。

自分の人生を制御し、自分の立場がどんなものであるのかを知る有効な手段

あくまでウェーバーの主張を説明するという形で書かれた文章ではある。しかし、

私はこの本が好きでした。

という文末の言葉から類推すれば(『好書好日』内の連載企画名〈大好きだった〉を受けたものであるとはいえ)、米澤にとっての学問というもののひとつの位置付けを表すと考えても無理はないだろう。

しかし人類は学問を進め、この世の仕組みを解き明かそうとし始めた。世界を覆っていた魔法は解けてしまい、いまや自分で自分の神を選ばなくてはならなくなった、これが時代の宿命である……これは宗教的な話ではないですよ。もっと実際的な話です。

この、人生のあらゆる局面で自分の立場を自分で決めなければならないというのが現代の宿命だというのです。

ここでいう自らの「神を選ぶ」ということは、言い換えれば、何をよしとし何をよしとしないかを自らの判断で決めること、ひいては、自らの人生観を自らで打ち立てることだと私は理解した(ここで行った換言が正確か否かわからないが、しかし、米澤のエッセイを読み、そして『職業としての学問』を読み、そしてこの記事を書く上で、自分なりに換言することの必要性を感じたため、上記のような言い換えを行った。どうかご理解いただきたい)。

 しかしこの「自分の立場を自分で決めなければならない」ということを貫くのは簡単なことではない。

どれだけ必死に取り組んでも、最後の閃きが得られなければ仕事は有意義なものにはならない……この残酷な宿命から目を背けた人々が、「個性」と「体験」をもてはやしている。

個性と体験がもてはやされるのは、実は、このしんどさから逃れようとする弱さのためだとウェーバーは喝破します。

ここで、ウェーバーは(あるいは、ウェーバーの文章への解釈として米澤は)「学問」、すなわち自らの立場を自分で決定することを貫くあり方と、「個性と体験」、すなわち必死に自らの仕事にのめり込むことで閃きが訪れるのを待つと言うことの過酷さに耐えかねて、体験に基づいた個性を自らに宿そうとすることとを対置してみせる。

 人生のうちの、特に小説を書くという営みにおいて「神を選ぶ」ということと、殊更に個性をもてはやすこととの間に対置の構図が成立しうるということは、2022年6月2日に高山市民会館で行われた米澤穂信講演会においても言及されている。

www.takayama-bunka.org

この講演会において、米澤は小説を書くとは「個性を押し出してゆく」ものではなく、あくまで「よい」とされるものを目指していく営みであると語った。ウェーバーが言うところの「魔法からの世界解放」を経て、小説家とは社会にある価値観を具現化する(より正しくは、具現化されて「しまう」という機能的な意味を持つ)存在となった。小説家が個性を発揮しようとすると、そこで顕れた珍しさはやがて次の珍しさによって陳腐化されていく。したがって、むしろ個性など発揮しようとすることができない不毛な努力の果てに、誰も見たことがないものを白日にさらす、それこそが小説家であると語っている。こうして、その人だけが書きうる小説が(あるいはもっと広く、その人の人生観が)成立していく。こうした営みを通して、ミステリを書くことで、小説を書くことで現実と切り結ぶことができる。この世界において小説を書くということの意味を、米澤は例えばそういったところに見出していると思われる。

 付け加えれば、この「神を選ぶ」プロセスは、米澤が登場人物を作り上げていく過程にも通ずるところがあるように思われる。様々なインタビューにおいて、米澤は「その人物がこれは行わないだろうと思われることを作中で行わせないこと」を積み重ねていくことで、作品における登場人物の人物像を作り上げていくと話している。その過程において問われているのは、登場人物の人生観であると同時に、登場人物の人生に対して最終的に作者自身がどのような判断をとるのかという、作者の倫理観でもあろう。

 ここで、改めて「神を選ぶ」ことと「体験を求めること」の対比構造を振り返ってみる。前者は自らの人生観を自らで打ち立てること、後者は個性の源泉を体験に求める態度であり、米澤はこうしたプロセスをとくに(小説を書くと言う営みという意味においての)小説観の形成過程とを紐づけて語っている。関宮で米澤が山田風太郎の小説に吹く「虚無の風」の源を、山田風太郎自身の体験ではなく、山田風太郎が自らで打ち立てた人生観に求めたことは、この二項対立の構造と対応しているように感じられる。

 

安寿と厨子王ファーストツアー」について

 

以下では米澤穂信の短編「安寿と厨子王ファーストツアー」の内容に触れています。未読の方や、本作に関していかなる事前情報も受けいれたくない方はここでこのページを閉じてください。そして、「安寿と厨子王ファーストツアー」を読んでください。

 

 ここまで、米澤が講演会やエッセイなどでたびたび表明してきた価値観について、学問という単語、あるいはウェーバー『職業としての学問』をキーにアラインすることを試みた。ここからは、そうして得られた価値観と照らし合わせて、ひとつの大好きな短編を読み直してみたい。取り上げるのは「安寿と厨子王ファーストツアー」である。

pandreamium.sblo.jp

 岩城の安寿は母親と弟と連れだち、九州に流された父を訪ねようとする途中、人買いに騙され丹波山椒大夫に売られた。厳しい苦役の日々の末、弟だけでも逃がすため、安寿は沼に身を投げた……。

 しかし安寿は、死んではいなかった!

 琵琶を手に、息を胸いっぱいに吸い込んで、安寿はいま山椒大夫に、運命に、憂き世に戦いを挑む。

安寿と厨子王」のオマージュでもあるこの作品は、沼に身を投げた安寿が生きて岸辺で見つかり、再び山椒大夫の元へ戻る場面から始まる。山椒大夫は金を重んじるひとであったため、高値を出して買った奴婢が死ぬのを許さず、どうにかして安寿を使って金を儲けることを考える。ある日、母と厨子王を恋しく思い歌う安寿の声を聞き、山椒大夫は彼女の歌で以って商いを行うことを思いつく。大江の市に建てた小屋で安寿は歌う。安寿の歌声は評判を呼び、多くの人が集まるようになる。そんな中、とある事件をきっかけに、安寿は自身の世界の見方、ひいては自身の歌のあり方を見出し、自らの歌を模索するようになる。

 ミステリを多くものし、自身がミステリを書く作家である(上記の『六の宮の姫君』に関するエッセイからも読み取れるように)という自覚を持った米澤の作品群において、過剰にすら感じられる掛け言葉あるいは洒落(「商」「扶安」「契渡」……)、民話を取材した一見ミステリとは関係のないように見えるプロットなど、この短編は米澤作品の読者にとって一見特殊な立ち位置を占めると思われる。

 この作品において、安寿の自らの歌に対するスタンスは以下のような遷移を見せる。すなわち、身を投げた安寿を使って金儲けを目論む山椒大夫によって、(むろん母と厨子王を思って自然と出た歌声が良いものであったにしろ)歌わされていた歌だった。母や弟と生き別れになった悲しみを歌う、それは破楽土だった。しかし、聴衆に迎え入れられ、自らの歌に酔う扶安の姿を見るうちに、安寿の歌には生のよろこびがこもり始める。法を布くと呼ばれた安寿の歌を、人は法布と呼び始める。しかし、ある事件を境に安寿は歌うことができなくなる。歌えなくなった安寿は、自らが歌がいつしか自分にとって欠くべからざるものになっていること、しかし、歌うこと、生きることにはよろこびやうれしさだけではないことに思い当たる。自らはたまたま金になる歌を歌うことができたために、金を信ずる山椒大夫にうまく利用されていただけだと気づく。安寿は琵琶を取り、自分を取り巻くさまざまなものへの怒りをこめて歌い始める。それが六であった。

 安寿の歌に対するスタンスというのは、安寿が歌う歌のジャンル、あるいは安寿自身の内面的な変化を反映していると同時に、安寿と安寿自身を取り巻く環境、すなわち憂き世との対峙のあり方を反映している。母や弟と生き別れた安寿の悲しみ、悲しみの中で歌を歌わざるを得ないこと、その悲しみを癒す聴衆たちの反応、あるいはそれら全ての元とも言える山椒大夫の価値観などに、都度、いかにして向き合い、いかにして抗っていくのか。破楽土から法布へ、法布から六へと、安寿は自らの世界との向き合い方を変遷させながら、やがて自らの道を知ることとなる。

すべてが終わったとき、安寿は自らの道を知った。

「自らの道」とはなにか。どういうものか。文章はこう続く。

歌うべきことがある。歌わねばならぬ。だがそれは、決まり切った詩ではなく、取り澄ました悟りでもなく、それを超えたものでなければならぬ。

安寿は確かに歌によろこびを見出した。しかしいま、安寿は一種の使命感に突き動かされて歌うことを選択しようとしている。奴婢として厳しい境遇の中、山椒大夫に酷使されている奴婢がいる一方で、安寿は自らの恵まれた境遇を御仏のおかげだと信じようとしていた。そのような歌を歌い続けようとした。そして、安寿はそのことを疑い、そして、怒った。そのようにして、自らの道、自らの歌、すなわち六へとたどり着いた。六とはこのような歌だという。

安寿は破楽土で憂き世のかなしみを、法布で憂き世のたのしみを歌った。それらは客の耳を楽しませ、涙を誘った。しかし安寿が六で浮世の怒りを歌うとき、聴く者は自らの拠って立つ場所を問われるのだ。この世が憂きものであるならば、それはなぜだ。この世を憂きものにしているのは、仏か、おのれか。

たとえば、自らの境遇を「御仏のおかげ」と信じ、その背後に横たわる現実に目を向けずに生きていくことを選ぶことを、あるいは、この憂き世を憂きものとしているのはなにか、その現実に目を向け、その根源を探る営みをやめないことを、あるいはそれらの対比の中に、ウェーバーの、そして『職業としての学問』を「好きだった」と書いた米澤のことばを見出せはしないだろうか。

 破楽土や法布は安寿にとって憂き世の慰めになるものであったかもしれない。それらは安寿の感情を癒し、あるいは研ぎ澄ますものであったかもしれないが、しかし安寿は破楽土や法布の人ではなかった。なぜならば、それらは嘆きの歌、あるいは宗教的世界観の中で自らの境遇を進んで受け入れるための、あるいは、まだ魔法から解放される前の世界で生きていくための歌であり、自分の人生を制御できる歌ではなかったからである。

しかし安寿の本性は、六のひとであった。

安寿の歌は六であった。安寿が求めたのは、憂き世を憂き世たらしめている現実を見据え、自らの人生を自らで制御するために、自らの拠って立つ立場を見定め、その根拠を与えてくれる歌だったからだ。つまり安寿にとって、六は学問だった。六を自らの道と見定め、一心に歌う安寿は、そのようにして現実と切り結ぶことを選んだのだ。

 それだけではない。安寿は六を歌うことで、山椒大夫をも動かす。金を信じ、金のために安寿に歌を歌わせた山椒大夫に、安寿は自らの六で以って自らの願いを聞き届けさせる。金を信じ、金に自らの倫理を拠って立つ山椒大夫にとって、金を信じると言うことはひとつの人生観であり、金とは彼にとっての学問だったのかもしれない。歌で以って生きる安寿が、金を信ずる山椒大夫を動かし得たことは、これもまた米澤が「さあ神を選びたまえ」において、

それどころか学問的態度が身についていれば、こしあん派の言い分を分析し、非合理を排除し、自分のつぶあん派学問を再検討して、両者を和解させる新しい学説にも到達できるかもしれない。

と書いたことと呼応しているようにも思える。学問または学問的態度を通じれば、異なる信念の間に和解を導くことが可能である。ゆえに、安寿は歌を以って憂き世と切り結び、山椒大夫をも動かし得た。それだけではない。異なる信念として描かれるのは歌と金の対比のみではなく、安寿にとっての歌もまた、異なる信念の移り変わりとして描かれてきた。ここでいう信念とは、人生観と言い換えられるかもしれない。母と厨子王を恋しく思い、同じ奴婢の身にある者たちに逃げよと告げる嘆きの破楽土、御仏の教えを布き、この世の苦しみを受け入れようとする法布を経て、安寿は人買いに、憂き世に、御仏に怒り、救えと迫る六へと至った。至っただけではない。自らの道を知り、現実と対峙し得た安寿は、京東道無の雷舞でとうとう、かつて訣別したおのれの歌に再び立ち戻る。

破楽土も法布も、もちろん六も、どれもが安寿の歌なのだ。強いられて歌った歌も、自ら望んで叫んだ歌も、すべてが安寿の欠かせぬ一部であり、いまや安寿はそれを知っている。安寿はついに歌と和解した。

学問の力を以って現実を捉えることができたゆえに、歌が自らの一部となっていく過程、かつて歩み、いまは自らの道と見定めた道ではない道とも和解を果たすことができた。安寿は自らの人生を制御する術を手に入れたのだ。

 あるいはそのような、自らが良しとするものを探すために無限の相対評価を繰り返すことには、米澤がかつて語った読書論とも重なるところがあるように見える。

解説やガイドに導かれて 米澤穂信 - 日本経済新聞

「全ての本は文脈に沿って書かれている」と米澤が強く意識したのもまた、『六の宮の姫君』を読んだ時だったと言う。

同世代の作家たちが逃れがたい世相から影響を受け、互いに刺激し合い、過去から受け取ったものを未来へ受け渡していく、その途上にこの一冊の本があるのだと感じた。

この、互いに近づき、離れ、また近づきながら、過去から未来へと受け継がれていくトポロジー、その継承は、学問が時間の流れの中で、時には否定され、時には発展し、次第に継承されていく様と重なっている。

学問は時代遅れになることを自ら欲するのですから。

さあ神を選びたまえ 米澤穂信さんが出会ったウェーバー「職業としての学問」|好書好日

米澤が「学問はミステリになりうる」と考えた時、学問のすがたとして創造されていたのは、時の流れの上流から下流へ受け継がれながら時間的に発展していく、あるいはそのダイナミズムの中に身を置こうとする、知りたいと思うこころの変遷ではなかったか。

 米澤は『六の宮の姫君』を皮切りに、同じ作家の本を片端から読んだり、巻末の解説や読書ガイドを頼りに本を読み進め、無数の相対評価を繰り返した果てに、自らの読書の原点とも言える本へとたどり着いた。

私は私の、生涯の宝を見出したのである。

解説やガイドに導かれて 米澤穂信 - 日本経済新聞

安寿は遂に自らの歌に巡り合ったのだ。

   ──「安寿と厨子王ファーストツアー」

安寿もまた安寿にとっての、生涯の宝を見出したのかもしれないと思っている。