岩波零『このシェアハウスは恋愛禁止なのに、どうみても告白待ちの顔をされています』
読書会のため。
レベッカ・ソルニット『迷うことについて』
同著者の『ウォークス 歩くことの精神史』を読みたいと思い、大学の図書館に合わせて予約していたが順番が前後してしまった。タイトルに「迷う」とあることや、もともと『ウォークス』への関心に端を発して手に取ったことから、道に「迷う」ことの話かと思って読み始めた。確かに原題の"A Field Guide to Getting Lost"を直訳すると「迷うことについてのフィールドガイド」となるかも知れないが、著者が繰り返し書いているように、そして、訳者解説でも触れられているように、この本、そこに収められた文章においてLostという単語には、その言葉が担う様々な意味が———失われる、行方不明になる、消え去る、敗北する、死ぬ、滅びる、そして、迷う———入れ替わり立ち替わり託されることになる。Lostという単語にそれらの意味のいずれかが載せられるとき、他の意味は決して透明になるのではなく、むしろLostという単語を介して積極的に相互の接続が試みられる。そしてそれらはおそらく、冒頭の「開け放たれた扉」で語られたように、「迷う」という意味を入り口にして、いまだにそれを考えるべきだとわかっていないこと、あるいはすでに知っているにもかかわらず知らないふりをしていることに取り組んでいく方法として、自らの存在を目の前の状況に委ねながらLostしていくことを試みる。あるいは、それまでの著者の半生の中に、試みてきたことの足跡を見出していくその足取りが書き記されているのだと読んだ。
そうしたLostについての文章の間に挟まれるのは、「青」についての文章だ。例えば青とは空気中で、
その旅路をまっとうできなかった迷ってしまった光
の色である。それゆえ、
地平線、はるかな山並み、遠方にあるもの。隔たりの向こうにあるのは内面の色だ。孤独と憧憬の色。こちらからみえるあちちらの色。自分のいない場所の色。そして決して到達することのできない色。なぜならその青色は何マイルか先の地平線にあるのではなく、その山と自分とを隔てている空気が帯びている色だから。
と著者はいう。(まだそうした読み方に自信があるわけではないけれども)ここで青とは、自らと対象の間の隔たりの象徴であり、どこに向かったらいいのかわからない自分を取り囲む環境の色であり、いまだ自らが到達していない場所を覆う色であり、それゆえに、「迷う」「失われる」「消え去る」といった全てのLostすることに付随する色でもある。すなわち、自らをLostすることに積極的に身を委ねていくことは、その「青」をあるがままに受け入れることであるのだと、(例えばシモーヌ・ヴェイユを引きながら)著者は言っているのだと思う。
というのは、冒頭の二つの章ですでに全て明らかにされていることであり、後の章で語られていることに対して自分が正しく読めたのかということに関しては自信がない。語られていることの多くは著者の個人的な記憶に基づくものであり、そこで語られていることは必然ごく個人的なことだ。しかしそれでいて、例えば最後の「平家の家」で象徴的なように、Lostそして「青」という共通的な概念を通すことで、人生にまつわる記憶がそのまま、現実の社会に横たわっている問題の中に分け入っていく(それがそのまま問題の解決につながるとは言わない。それは短絡的であり、それにはまたそのためのスタンスがあるのだと著者もまた思っているような気がする)という営みにつながっている。そのような思考の枠組みを手に入れるためのLostであり「青」だったのだという気もする。しかしそう片付けてしまっては、実際に文章として書かれた多くの個人的な記憶を取り落としてしまうような気もする。その両方のバランスの取り方に、読み終わったいま、まだ戸惑っている。
だから差し当たっては、部分部分で覚えている感想をいくつか連ねて感想を終わることにする。
- 「わたしたちがある種の歌や物語に込められた非愛に悦楽を見出すことの謎もおそらくその辺りのどこかに潜んでいる。常に遠くにしかないものがあるのだ」という文章の直後に、シモーヌ・ヴェイユの「わたしたちはこの隔たりを、友情によって織りなされたこの距離を愛することにいたしましょう」という言葉を引き、「近づいて胸に抱いたとしても、両手が包むのは謎、知ることのできないもの」と書いている。おそらくこの感覚は、普段小説を読むときによく感じることがある感覚に近い。例えば暗号もののことを考えてみる。
- 「二つの鏃」は特に終盤が印象深かった。なるほど、この世界は青い二相に挟まれたところにあるのだ、という当たり前のことを、さりげなく、それでいて印象的な風景と共に描いたところに素朴な情動を覚えたのもあるが、その一方で、『めまい』の作劇と、それに対するアンチテーゼとしての著者自身の創作の経験について、「重力とは死の甘美さとそれに抗う私たちの強さだ」と書いていた部分もまた記憶に残った。当たり前にある環境条件に対して身を委ねながら、それゆえにその中でいかに自らが流れに棹差して生きているのかを感じることができるというのはそれまで書かれてきたことのパラフレーズになっているような気もするし、ただもっと素朴に、その言葉から連想される他の小説がいくつも思い浮かぶというのもある。
- ボルヘスの「学問の厳密さについて」についての話が書かれた直後に、(おそらく同様の民話は各地にたくさんあるのだろうけど)ユルスナールの「老絵師の行方」に似た挿話が連想されている箇所があり、たしかに前者を読んだときに後者を思い出したことはあるものの、それがこのような文脈で登場するのか、と思った。とは、つまりただの連想ゲーム的な繋がりが、より大きなひとつながりの思考の中に織り込まれた、という感覚のことだ。
- 第8章はまるごとイヴ・クラインの評伝のような形となっていたが、『虚空への飛翔』の撮影にまつわるくだりが思わず胸を衝いた。写真から当然予想される痛みがなかったとわかったときの落胆、しかし実は本当にその痛みがあったはずだとわかったときの哀れみとも悲しみともつかない気持ち、そしてそうした痛みさえも飛び越えて写真がある一瞬を固定することに対する切実さ、そしてそれが隔たりというものを織り込んだ切実さと接続し、より大きなうねりの中で再配置されることへの驚き。
和ヶ原聡司『エルフの渡辺』
同じ作者の作品は『はたらく魔王さま!』しか触れたことがないけど、おそらく、いまだ知らぬ他者と出会うということと、いまだ知らない世界つまり異世界とこの世界が接続されてしまうというところに比喩を見出しながら書かれたのかなと思った。『はたらく魔王さま!』ではそれが一貫してギャグを生み出す泉になっていた一方で、本作はユーモアを生み出しながらも、むしろそれがある人を好きになる過程の心の動きと対応させられている。相手がどのようなものを好きになり、どのようなものを受け入れないのか、ということを、日常の中の些細な気づきの中で知っていく過程が細やかに描かれている一方で、それが「エルフ」という未知の存在、あるいはその「エルフ」の故郷である異世界が一体どのような世界であるのかを知っていくことは、ともに並行しながら、常に「エルフの渡辺」あるいは「渡辺風香」というひとりの人間を、つまり一度告白しながらも、相手が抱えている未知の一面を突然に知ってしまったことに対して、改めて立ち止まって「知る」プロセスを歩み直すことでふたたび正当な形で「好きになる」ための営みを繰り返すことにつながっている。そういう意味で、とっぴな設定、とっぴな導入と裏腹に、とても地道な物語なのだと思った。地道であることは悪いことでは無いと思う。
主人公が写真というものにある程度思い入れがありそうなのにも関わらず、それが魔法と絡んだ途端に目の前の問題を解決するためのツールとなってしまうところにはやや残念さを覚えた。主人公とエルフの渡辺が、それぞれ写真と園芸という営みによってそれぞれの距離を縮めていく以上、それらの営みそれぞれに対して、それそのものがそれそのものとして尊重されているべきだと僕は思う。結局それが実現されているかどうかは読み手の匙加減になってしまうのかも知れないが、少なくとも読みながらそのような感覚を覚えたことだけは書き記しておきたい。エルフの渡辺にとって園芸というのがどのようなものなのかは、エルフの渡辺自身の言葉によって、そして、エルフの渡辺の故郷の情景によってルーツと結びつける形で語られようとしていたように思われる(その方法の是非は置いておくとして)。写真についても、主に技法について、そして主人公が写真に関心を抱いたその始まりについて、本人の口から語られていた。しかし、写真、そしてそれを撮影することが主人公にとって一体いかなる意味をもつ営みなのかを掘り下げる前に、異世界へゆき、問題が起こり、それを解決するための道具としてカメラが使われてしまったような気もする。その性急さゆえに、
「二人とも、笑って」
という言葉は切実さを少しだけ失ってしまったような気がした。もちろん、それは上にも書いたように匙加減の問題だともいえ、このシンプルな言葉に切実さが載せられるという、そのこと自体にははっとした。
四季大雅『クラスで浮いてる宇良々川さん』
『ミリは猫の瞳のなかにすんでいる』でも感じたし、『バスタブで暮らす』でも感じたことではあるが、四季大雅の小説を読んでいると、当初一人の人間にとっての情動であったことが、この世のさまざまな概念を渡り歩きながら、いつしか、より大きくそして普遍性のある言葉を下支えするイメージを獲得し、それが実際にこの世の中に見出してみせる、という手品のような流れを感じることがある。手品というのは文字通り手品で、実際に物語の中でそのことが起きているのに、それがいかにして実行されたのかということがわからない。しかし、愛おしい登場人物(たち)のことを思いながら語りを追いかけるうちに、いつしかおおきくて普遍的な概念の窓辺へと導かれる。
『クラスで浮いてる宇良々川さん』もまたそのような小説だった。ハカセをはじめとする癖のある飛行機部の面々と、意図せず「浮いて」しまう宇良々川さんの邂逅からしてユーモラスだし、「浮いて」しまうことそのもの、あるいはその背後にあるいまだ他の登場人物が知り得ない過去が引き起こす悲しみの前に心細さを覚える宇良々川さんと、そのような宇良々川さんにどうにかして寄り添おうとするハカセの姿は、チャーミングだしなにより愛おしい。「浮いて」しまうことが宇良々川さんにもたらす不便や恐怖のことを思えば、おんぶしたり、お互いの手と手を結んだりして夜の街を歩く二人の姿は、どこか頼りなく、しかし、その頼りなさを受け入れることなしには育つことのないひととひととのつながりのはじまりがあるような気がする。
「ごめん、どうもありがとう」
「いいよ、ゆっくりいこう」
例えば慣れない浮遊生活に苦しむ宇良々川さんへと掛けられたその言葉を、読者である我々は最も容易く「愛じゃん」ということもできるかもしれない。夜になると不安においつかれてしまうと知っている。ましてや自分が「浮いて」しまうのだとすれば、その不安を想像することは難しい。想像に難い不安がやってきた時、隣にいて、手をとってくれるひとがいるとすれば、その時の気持ちをなんと呼べばいいのか。実際に僕はその時、迂闊な感動を覚え、そして、それを飲み下すのにとても苦労した。一人は足に怪我を負い、かつて好きだった人を失った心を掬い上げてくれたものを再び失おうとしている。もう一人は自らの存在の空虚さに絶望し、しかしその絶望さえ自らの空虚さを埋め合わせてはくれないのだということに気づいて身動きが取れなくなっている。世界の前で居心地が悪そうにしている二人が、どうにか道を歩いていく。お互いがお互いにとっての救いになれる可能性を秘めたまま、しかしこの時は、ただ互いの身を案じながら、ただ無邪気にその状況と戯れている。手に余る悲しみ、手に余る不安が訪れた時、一度世界と切り離されたような場所で(例えばそれは夜の街の形をしている)、笑い合ってみる。そのような現実逃避的な明るさは身に覚えがある。そうせざるを得ないような状況の中で進んでそうあろうとするということ自体に、愛という言葉を与えてことたれりとして、愛おしみたい心がある。
しかしこの作品は待ったを掛ける。自らが愛されるに値しないと信じ込んでしまった故の悲しみが極まり、それに呼応して「浮いて」しまう体はもはや「飛んで」しまい、飛行機部の面々の前から消え去ってしまう。それは、これまでのささやかなふれあいを愛と呼んでしまうこと、それでことたれりとすること、それが宇良々川さんの問題を掬い上げることが可能であることを棄却する。その代わりに、宇良々川さんの抱える問題の根底に何があるのかを見つめること、そこに見出される構造がこの世界のかたちをいかに規定しているのかを考察すること、例えばそれが世界の中にどのような形で姿を顕しているのかを考えることを要請する。少なくとも、一度目の読書で僕はそう思った。そうした小説に内在する倫理観のようなものの発する要請に対し、物語自身は、イメージの重ね合わせや連関の応酬で応える。「影」を捕まえることを当面の目的としたハカセは、「世界と意識が繋がり、夢と現実の境目がなくな」った世界の中で、宇良々川さんを探す。その中で、例えば「浮いて」しまうことの対義語としての「石」、あるいは「重み」に意味が与えられる。それは「浮いて」いってしまう一人の人間をこの地上にとどめ置くために必要なしがらみである。あるいはもしその人が「浮いて」しまうのであれば、「影」もまたその人から遊離していってしまう。その意味では、「浮いて」しまうことの対義語、あるいは「浮いて」いないことの証明として「影」は存在する。遊離してしまった。あるいは、作中で描かれる顔に大きな穴の空いた「影」の姿は、マグリットや石田徹也の絵を想起させるかもしれないし、それを通して『バスタブで暮らす』で書かれた能面のイメージを惹起するかもしれない。あるいは「影」とはその響きの通り、人生の中にあった悲しみの比喩としても働く。
『戦争のある時代に生まれたかった……』
(中略)
『残酷でもいいから運命が欲しかった……』
『偽物でもいいから神様が欲しかった……』
「影」の宇良々川さんが口にする嘆きとも怨嗟とも取れる言葉は、自らがこの世界に根付くに足る理由を求めながら、自らの認識の中からそれが決定的に欠け落ちていることへの悲しみが言葉の形をとって漏れ出してくるかのようだ。「影」を含めてまるごと宇良々川さんを取り戻すということは、こうした欠落、あるいは「浮いて」しまうのだということそれ自体を受け入れるということと本来同じ意味であるように思われる。そのかたわらで、ハカセと雪姉の思い出の中からは「ダッシュツ」のイメージが生じてくる。子供であったハカセにとっては理解が難しく、恐怖の対象でさえあった「鉄格子」、あるいは雪姉の母による雪姉に対する干渉の中から、雪姉とともに「ダッシュツ」することは、あるいは地球から脱出し、月へと辿り着くイメージへと繋がる。そこでは、「ダッシュツ」と「浮いて」しまうこと、あるいは「飛ぶ」ことはそれぞれ関連しあいながらなんらかの像を結ぶのではないかと思う。
これは一見不思議なことだ。「浮いて」しまうことの対義語が「重み」や「石」なのであれば、「ダッシュツ」あるいは「飛ぶ」ことを指向するハカセにとって、宇良々川さんが「浮いて」しまうということを問題視するということは、決定的なイメージ間の決裂のように見える。しかし、この小説の中ではこの一見すると全く反対の帰結を導きそうな二つのイメージが、ごく自然に関わり合っている。どうしてそれが実現しているのか、僕には正直わからなかった。どのような力学がそのようにこの小説を読ませしめたのか分からなかった。ただ、ヒントがあるとすればそれはやはり小説自身がいうように「愛」なのだろうと思う。
言葉なんかいらないよ——
作中のこの言葉は、決して言葉を軽視する言葉ではない。逆であると思う。誰かに出会うとき、誰かを知ろうと思うとき、誰かに惹かれるとき、相手が何者であるのか、相手が何を好み、何を嫌い、どのような言葉を用い、どのような言葉を避けるのか、知ろうとするだろう。ハカセと宇良々川さんもまたそのような過程の中にいた。そこでは言葉が交わされる。しかし、言葉がどこまでも漸近しながら、しかしそれでも決して届き得ない領域を感じることがある。そこに何があるのか思考しながら、しかしその領域が決していま手の中にある言葉のうちにだけあるのではないことを認めること。その時、内側から「破壊」し、「ダッシュツ」することが、その領域へさらに近づくことを許す。この物語もまたそのような抽象的な一連の動きを、「愛」という一つの言葉が与えられるまでの動きをその一つの究極的な例として書いたものとも言えるのかもしれないと思う。そうであるならば、一見矛盾にも見える「魂を重くすること」と「飛ぶ」ことの間の連関にも、少しだけ納得することができるような気もする。
僕らは二本のリボンになって、ゆるゆると絡まる。
もはや削ぎ落とすものがないまでに抽象化された絵と動きをハカセは見る。自らの心情と意思を重ねながら。そしておそらく、そこに最も単純化された「愛」の力学を見てとったのだ。逆かもしれない。ハンプティダンプティに従うなら、「愛」という言葉を思う時、常にその二本のリボンの様態を、そこに働く引力と斥力とを思い浮かべるようになったのだ。その時おそらく、ハカセは「愛」をこの世にあまねく染み込んで、全てのものとものとの間の連関として表現される力としてイメージするようになった。そしてそのことこそが、つまりそのようにして愛を見出すことこそが、矛盾であるはずの二つのイメージを無理なく重ねることを可能にした。例えば戦争の中に愛を見出す。例えば例えば重力の中に愛を見出す。「石」の比喩によって捉えようとしたアインシュタインの人生の中に愛を見出す。そしてそれは、まるで物体の動きのなかに運動方程式を、全ての流れのなかにナヴィエ・ストークス方程式を、電場と磁場そしてなにより光のなかにマクスウェル方程式を見出すみたいに、いままさに世界に起こっている全ての事象の向こう側に愛を見出すことだ。そのようにして、ハカセは雪姉との思い出を、宇良々川さんとの関わりを、宙への憧れを、飛ぶということを、この世界の中に織り合わせようとしている。
繰り返すが、どうしてそれが可能だったのか、どうして目の前のこの小説がそのような形を取り得たのか、今の自分には分からない。しかし、それでもたしかに実現している。それがとにかくすごいことなのだと少なくとも現時点では僕はそう思っている。
バードウォッチングを趣味としてから、いかにして「鳥を見る」ということを書くできるのだろうかと思うことが多かった。カメラに手を出すお金もないし、なにより写真を撮るということと鳥を見るということは、それはナチュラルにはそのまま一致しないような気もする。かと言ってライフリストをつけるのも(本当はつけた方がいいに決まっているが)まだ続けることができない気もする。そういう気持ちのなかで、とりあえず鳥を見ることを書いているものを読んでみたいと思って読んだ。
行きつ帰りつする鳥の旅のただ一つのスナップショットとして切り出された一瞬に、双眼鏡の狭い視野を通して出会うことがバードウォッチングであるがゆえに、その一瞬の外側に広がる途方も無い時間、あるいは途方も無い空間の広がりに思いを馳せることがある。それは僕自身の少ない経験を通してもそう思うし、文章を読んだり話を聞いたりしていてもそう思う。そしておそらく著者のまたそうなんだと思う。例えば著者は、自らの自宅に現れるジョウビタキが、夏にはユーラシア大陸へと渡っていくことを書き記す。かつて諏訪湖で出会ったオオワシに、今度は道東で出会ったことを書き記す。そこには確かに双眼鏡越しにみることのできない時間があったのだと想像しながら、その渡りの旅程にただ驚嘆を覚える。
しかし一冊のエッセイ集として振り返ってみると、鳥を見たり、その鳥について考えたことが、やがて人の暮らしについて、あるいは人の動きについての洞察を惹起するような書き方がされていて、やはりそこに鳥についての観察と人についての洞察の親密さを感じた。例えば鳥の渡りmigrationは、同じ単語であるからどうしても人間の移住migrationを想起させる。動物の移動において適切な進行方向を決定することをnavigationというが、それは著者を案内navigationするガイドに重なる。鳥を鳥として見る時間から、鳥を人の比喩として見る時間への移行の瞬間があるにもかかわらず、それを地続きのものと思えたのは、著者自身のアクティビティあるいは感覚がおそらく込められた文章なのだろうということが想像されたから(各エッセイの最後には、そこに登場した種の紹介文がある。どれもユーモラスであり、時に本筋から外れるが、人の比喩として語られる時に泣く泣く削がれることもある著者自身の10館だと思うと、しかしそれこそが重要な部分だとも思う)だし、そうした感覚を感覚だけで独り立ちさせないために導入される一種の信念としての自然科学が文章を支えているからだろうとも思った。もちろん、個々の文章の静けさや、超俗的なエピソードと生活に根差したエピソードが突然相乗りになる感じも好きだった。
じゃあこれを読んで自分は自らの趣味のひとつをいかに書くかということについてはいまだよくわからないものの、ひとつ遠くに見えるロールモデルを得たような気もする。