晩秋

はじめに

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いずれ来るとわかっていた冬の訪れがとうとう近づき、なんなら東京創元社がカウントダウンをはじめ、多くの読者もまた指折り発売までの日数を数え始めた頃に、僕は小市民を再読し、そしてこのブログを書いている。いつか冬期限定が出て、小鳩と小佐内という二人の人間の物語にピリオドが打たれるということが現実味を持って受け入れられない時期を10年を超えて過ごしたこともあって、先ほど河原町丸善で『冬期限定ボンボンショコラ事件』を手に入れた今となっても、まだ信じられないような気持ちでいる。

そしてそのような気持ちを記録できるのももうこれが最後だと気づき、キーボードを叩いている。

他者を知ることに関して

過去に自らのあり方と周囲の他者との間に軋轢を生じ、それに対する防御機構として暫定的な人生観を設定するというのは〈小市民〉シリーズでも〈古典部〉シリーズでも見られた物語の導入である。それらは例えば「小市民」という言葉で表されたり、「灰色」「省エネ」「やらなくていいことならやらない。やるべきことなら手短に」と言ったスローガンとして表現される。これらのスローガンが具体的にどのようなことを意味するのか、これらのスローガンに従えばどのような行動をすべきなのか、ということと同じくらい重要な点は、こうした人生観を掲げた主人公たちが、他者との関わりの中でどのようにこのスローガンを更新していくかというところにあると僕は思っている。

いくつかのもっともらしい理由を挙げて、〈小市民〉シリーズを〈古典部〉シリーズと対比しながら話すことを正当化することは容易だ。しかしそれ以上に、僕は、大げさに言えば小説を読むという楽しみを覚えた直後から、この二つのシリーズを読み、読み返し、行き来しながら、古典部の面々が、あるいは小佐内と小鳩が、いかにして自身の人生を手に入れるのかについて思いを馳せてきた。客観的な正当性よりはむしろ、個人的な思い出によって、〈小市民〉のことを考える時は〈古典部〉のことも考えてしまうし、〈古典部〉のことを考える時は〈小市民〉のことを考えてしまう。

小鳩と折木の共通点は例えば、小鳩がいうところの「知恵ばたらき」の得意さと、それがかつて彼らに災いをもたらしたというところに見出せる。例えば折木はかつて知恵ばたらきをした結果、物語開始当初掲げていたようなスローガンと共に「長い休日」に入らざるを得なくなった。しかし『氷菓』『愚者のエンドロール』において、そこにいない他者に対して(それがどこまで行っても不完全なものであるということを引き受けながら)考える続けるということが、やがて、いま現在自らが関わっている他者への理解を目指し続けることへと接続されるにいたった。そしてそのような「考え続ける」姿勢は、〈古典部〉のその後の巻においても引き継がれている。少なくとも僕はそう思って読んでいる。たとえば『ふたりの距離の概算』の章タイトルである「手はどこまでも伸びるはず」は、そのように他者理解への努力をやめないことを端的に表しているようにも見える。

ここで対比したいのが、『さよなら妖精』において守屋路行のモノローグである。守屋は文中で繰り返し、マーヤを遠い世界から来たひとだと意識する。それは地理的な意味ではかならずしも間違いではない。

マーヤは遠くから来たのに、時々とても近くにいる気がする。しかし近くにいるようでもやはり、マーヤは遠くから来た来たひとなのだ。

 言葉になる前のイメージがある。

 想像の中に円ができる。

 円は薄暗い霞に囲まれているが、円の中にはスポットライトが当たっている。円の中にはおれがいる。文原、太刀洗、白河がいる。おれが立っている場所は比較的円の中心に近い。文原もたぶんそうだ。白河はもっと中心に近いだろう。そして太刀洗は、やや外縁寄りに違いない。しかし結局、おれたちは同じ円の中にいる。その中で競い、その中で勝ちあるいは負ける。そして、誰も胸を張って言いはしないが、この円の中にいるそれだけで実は生きていけるようだ。

 しかしある日、その円の中にマーヤが飛び込んできた。聞くところによると、全く別の縁から飛んできたという。噂には聞いていたが驚いた。そんなことができるのか、と。いや違う、そういえばそんな手もあった、という驚きか。

 そしておれは思う。向こうからこちらに来られるのなら、こちらから向こうに行くこともできるに違いない。ひょっとするとそのことによって、おれたちはただ円の中にいるのではなくなれるかもしれないのだ。

 つまりそれは、言葉にするなら……。

(中略)

「教えてやろうか、ユーゴスラヴィアのこと。自慢じゃないが、この学校じゃいまやおれが第一人者だ」

この守屋の言葉を受けた文原はこう答える。

「ご苦労なこととは思うが、俺は、自分の手の届く範囲の外に関わるのは嘘だとおもってるんだ」

この「手」のことを文原は

「いや、そのままの意味だよ。結局は身体だ」

というが、しかし、この言葉は示唆的だ。守屋が適切な形で、あるいは適切な動機で他者理解を行おうとしていたかはここでは問わない。しかし文原もまた、このような言葉でいまだ自らの知らぬ他者への理解を試みることに積極的でないことを表明している(それはそれで一つの哲学である)。一方で、前述のように他者理解を試み続けることが「手はどこまでも伸びるはず」と表現されている。いずれも鍵となるのは「手」だ。

ここで、「想像の中」にできた「円」をイメージしてみる。守屋は一つの円の中に何人もの人がいる図を想像していたが、簡単にするために一人だけ抜き出してみる。

灰色の円の中に黒い円が書かれている。灰色の部分には白抜き文字で「手が届く範囲」と書かれており、黒い部分には「自分」と書かれている。

図1

「自分」の周りには「自分の手が届く範囲」があり、その外側には「手の届く範囲の外」が広がっている。そして、ここに他者が飛び込んでくる。少なくとも守屋はそう表現した。

灰色の円の中に二つの黒い円が描かれている。灰色の部分には白抜き文字で「自分の手が届く範囲」と書かれており、二つの黒い円の中にはそれぞれ白抜き文字で「自分」「他者」と書かれている。

図2

守屋はまるでマーヤがこのような形で飛び込んできたのだと想像した。ここでの「自分の手が届く範囲」を日本、あるいは藤柴と考えれば一見納得できる。しかし「自分」に「自分の手が届く範囲」がある以上、他者にもまた他者の手が届く範囲があるはずである。

黒い縁取りの灰色の円が二つ、横に並んで重なっている。それぞれの灰色の円は内部に黒い円を含んでおり、黒い円どうしは重なっていない。黒い円にはそれぞれ白抜き文字で「自分」「他者」と書かれている。

図3

実際には、それぞれの手の届く範囲の広がりが重なっている。自らの手の届く範囲と他者の手が届く範囲が重なっている間、ときおり他者が自らの手の届く範囲に入ることもあるだろうが、それは決して、自分と他者がそれぞれの「手の届く範囲」を捨て、同じひとつ円の中に二人仲良く入っている状態を意味しない。

黒い縁取りの灰色の円が二つ、横に並んで重なっている。それぞれの灰色の円は内部に黒い円を含んでおり、黒い円どうしは重なっていない。黒い円にはそれぞれ白抜き文字で「自分」「他者」と書かれている。灰色の円の重なりの部分の幅の部分に、両端が矢印になった黒い線分が縦に引かれている。

図4

この、手の届く範囲の重なりの幅が、どれだけ両者が近い位置にいるのかを測る物差しになるかもしれない。他者が離れていくと、この重なりの幅も狭くなっていく。

黒い縁取りの灰色の円が二つ、横に並んで重なっている。それぞれの灰色の円は内部に黒い円を含んでおり、黒い円どうしは重なっていない。黒い円にはそれぞれ白抜き文字で「自分」「他者」と書かれている。灰色の円の重なりの部分の幅の部分に、両端が矢印になった黒い線分が縦に引かれている。図4と比較して灰色の円どうしが離れたため、この矢印の線分の長さも短くなっている。

図5

そして、いつしか自分と他者が完全に離れると、その重なりの長さもゼロになる。重なりの幅がすなわち、自分と他者の間に開かれた扉の幅とするなら、扉は閉ざされる。

黒い縁取りの灰色の円が二つ、横に並んでいる。二つの灰色の円は重なっていない。それぞれの灰色の円は内部に黒い円を一つずつ含んでいる。黒い円にはそれぞれ白抜き文字で「自分」「他者」と書かれている。

図6

守屋にとっての扉もまた、かつて閉ざされた。

 マーヤは藤柴を去った。

 それを、別世界への扉が閉じたとひょうげんするのは、ロマンティシズムが過ぎるだろうか?

守屋が想像した「自らの手が届く範囲」の外との関わり方とは、以上のようなかたちのものであったのではないかと僕は考えている。(こうした関わり方を人生哲学として抱き、そして、幸せな人生を送っている人もいるだろう。だから僕はこれを否定しない。そもそもこの文章は、一般にこの世に通用する人生哲学を求めることを目的とした文章ではない。だから、あくまで以下の文章は、僕が米澤穂信の文章を読むために考えたこととして、ただ、そのために単純化したモデルと、その検証のための文章として読んでほしい)

たとえば『さよなら妖精』と〈古典部〉を比較する限りにおいて、このような関わり方は祝福を受けることがない。その理由についてはいくつか思い当たることがあるが、たとえば、これは真の意味での他者理解ではないのではないか、と僕は思うことがある。自らの手が届く範囲の中に他者が入ってきて(あるいは他者の手が届く範囲の中に自分が飛び込んで)、それを理解して事足れりとする姿勢は、言葉にしてみるとどこか独りよがりである。

では、このモデルにおいて「手を伸ばす」とはどういうことか。少なくとも現時点において、僕は次のようなイメージを持っている*1

黒い波線の輪郭を持った灰色の円の中に黒い円が含まれている。灰色の部分には「手が届く範囲」、黒い円の内部には「自分」と白抜き文字で書かれている。灰色の円の外部には「外の世界」と黒い文字で書かれている。灰色の円の右側には指のように出っ張った同じ色の部分がある。

図7

手は伸びるものだから、手の届く範囲も可塑性を持っている。そこから「手」が伸びて、外の世界を探ろうとする。

図7の「手」の部分が不規則な方向へ伸長している。

図8

手は必ずしも一方向に伸びるとは限らない。他者を含み、他者の言い換えでもある外の世界はもちろん「自分」とは異なるのだから、その理解もまた困難なものかもしれない。少なくとも、思い通りにはいかない。そうした難しさが、時にはミステリにおける謎となる。

図7のような図形が左、中央上部、右に3こ並んでいる。それぞれ、図7の図形を反時計回りに約30度、時計回りに60度、時計回りに180度回転させた方向を向いている。

図9

外の世界とは「他者」そのものであるが、その「他者」にもまた「他者の手の届く範囲」があると考えれば、同様のかたちは至る所に存在する。それらがみな、他者を理解しようと試み、格闘し、悩み続けている。

図7の図形が反転して横にならび、指のような出っ張りが中央部において向かい合うように配置されている。左側の図形の黒い円の内部には「自分」、右側の図形の黒い円の内部には「他者」と白抜き文字で書かれている。

図10

しかし、もしかしたらそのような試みはいつか報われるかもしれない。外の世界を理解しようと伸ばされた手が、また別の他者の手と近づき、握手をする。これで完了ではないが、しかし、はじめて他者の存在を知ることができる。

たとえば、『氷菓』において折木は、ただ関谷純と神山祭をめぐる過去の出来事を推理して見せただけではない。「栄光ある古典部の昔日」を経て、折木供恵からの電話を受けて

そして、突き止めてやる。三十三年前、関谷純が本当に薔薇色だったのか。

と決意した折木が、その推理を話す場所として糸魚川養子教諭の前を選んだのは、ただ自らの推理の結論を、当事者の証言という証拠によって確固たるものにするためではあるまい。折木の推理は、三十三年前の出来事を明らかにするものであると同時に、『氷菓』という言葉に残された響きを取り戻すこと、部誌『氷菓』の「序」の書き手が

 争いも犠牲も、先輩のあの微笑みさえも、全ては時の彼方に長されていく。

 いや、その方がいい。憶えていてはならない。何故ならあれば、英雄譚などでは決してなかったのだから。

 全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典になっていく。

 

 いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう。

と書いた、その諦念ややるせなさやを掬い上げることでもあった。それは、自らの外側に広がり、いまもその向こうにいる誰かとの距離を引き離していこうとする三十三年という途方もない時間的断絶の中に、推理という手を伸ばすことでようやく成立した、現在の「わたしたち」と、三十三年前の「あなた」との間にある幽かな、ほんとうに幽かな理解である。「古典部」という、すでに自らの名前の中に、時間的遠近法、時間的断絶の存在を織り込んだ部活に不思議な縁からたどり着いた折木奉太郎にとって、あるいはその古典部におのおのの理由を持って集まった古典部の面々にとって、この時訪れた他者との遭遇、他者との理解は、もしかしたら一つの福音でさえあったかもしれない。

それだけではない。折木の推理は、千反田がかつて伯父の言葉によって泣いた理由を明らかにもした。「事情ある古典部の末裔」で千反田の願いを聞いた折木のモノローグは以下の通りだ。

 だが千反田は、落としてしまったものを過去から取り戻そうとしている。思えばそうだ、千反田はその好奇心で現在を掘り下げているようなやつだ。そいつが過去を掘ろうとするのは不思議でもなんでもない。伯父への手向けに、そして多分それ以上に自分のために千反田は過去を掘ろうとする。そして、不幸にしてこいつにそれを成し遂げるだけの力がないとしたら。

「過去を掘る」とは、時間的遠近法の彼方へ押し流されていく伯父との思い出、あるいはそれを否応なしに意識させてくる現在の法制度の比喩に対して、自らの能動的かつ指向性を持った移動によって抗うことだろう。それは、時間的遠近法という断絶の向こうへ手を伸ばそうとした折木と相似であり、相同である。であるならば、「それを成し遂げるだけの力がない」というのは、手を伸ばすことができない窮屈さのことである。あるいは、(千反田がそれを望むと望まないとにかかわらず)「自らの手が届く範囲」に閉じこもってしまうことでもあろう。折木の推理は、時間的断絶の向こうへ手を伸ばすことで三十三年前に置き去りにされた諦念へと辿り着き、それにより、千反田という、いま目の前にいる、自らが現に関わり続けている人間が、自らの望む「あなた」へと手を伸ばすことを手助けすることでもあった。米澤作品において、自分と他者が(あるいはその非対称性が気になるのであれば、他者と他者が)、互いに他者を求めて、まるで宇宙空間のような途方も無い広がりを持った空隙に手を伸ばし続けることの効用を、僕はたとえばこのようなところに見出しながら読んでいる。

 

小市民であるということについて

では〈小市民〉では、小市民をめざす二人はいかにして他者と関わってきたのか。〈小市民〉において「小市民である」と言うことは、小佐内と小鳩が小市民であるために結ばれた互恵関係と言う言葉で特徴づけられている。逆に、小佐内と小鳩それぞれが小市民であるということは、互恵関係という二者間の相互関係によって定義づけられていると言えるかもしれない。少なくとも『秋期限定栗きんとん事件』までに詳細に語られたことはないものの、小佐内も小鳩も、自らの性向に起因する人間同士のトラブルに懲りて、それを避けるために小市民を目指し、互恵関係を結ぶに至ったという。

少なくとも『春期限定いちごタルト事件』『夏期限定トロピカルパフェ事件』までの間で小佐内と小鳩が念頭に置いていた互恵関係とは、意図して図3のようなかたちを構築することで、小佐内と小鳩「以外の」外部的な環境(人間を含む)から自らを防衛するようなものだったと考えられる。こうした関係は、目の前に存在する他者を他者と認める前に「自分(たち)」ではない、と切り分ける思想につながりうる。たとえばそれは、「小市民」を自称することそれ自体が自意識過剰なことである、と作中で小鳩が繰り返し述べていることにも通じるかもしれない。もちろん自意識がなければ自己を確立することは難しいかもしれないが、「小市民」を災いに巻き込まれないための免罪符、あるいはかつての自らの姿と訣別するための呪文として唱え続けることは、他者理解へとつながる他者への意識を欠き、歪なまでに相対的に自意識の側が大きくなった状態であるといえる。あるいは小佐内と小鳩でない二人なら、そのような状態でもうまいことやっていくこともできたのかもしれない。しかし、他ならぬ小佐内と小鳩の性向がそれを難しくしてきた。あるいは、「小市民」「互恵関係」という言葉、あり方のいびつさを、幸運なことにも抉り出したと言えるかもしれない。

小鳩にとっての「推理」、小佐内にとっての「復讐」は、作中では堪え難い欲求のように描かれる。そしてこの欲求はたちの悪いことに、かつて自らに降りかかったわざわいを遠ざけようとして新しく心に決めたはずの「小市民としていきたい」という願いすらも覆い隠してしまう欲求である。小鳩の内心がある程度反映されていると思われる地の文において、小鳩は繰り返し、自らが推理してしまうことに対する言い訳を提示し、時にはその言い訳に小佐内を利用しさえする。小佐内にしても、自らが復讐へと駆り立てられていることを知りながら、互恵関係という名のもとに小鳩を利用してまで復讐を完遂しようとする。『夏期限定』において小佐内と小鳩が互いに指摘し、了承したように、二人の互恵関係は春期から夏期にかけて、その転倒したあり方を徐々に明らかにされてきた。つまり、小市民であるために必要であったはずの互恵関係は、その実、小市民から彼らを遠ざけるはずの彼らの性向を消極的に追認するための言い訳になっていた。

ここでいう「小市民」というものが具体的に何を指しているのか、というのは、作中通して具体的に明言されることはない。もちろん、個別の場面において「こういうときにこうするのが小市民」と言及されたり、そもそも読者である僕たちがすでに「小市民」という語に持っているイメージなどを通して、ぼんやりとしたニュアンスのようなものは伝わってくる。しかし、彼らが「小市民」という語を与えて表現した人生観がいったいどのようなものであったのかを、明文化して示すのは難しい(そもそもひとひとりの人生観という計り知れないものを定性的に他者が把握すること自体があまりにも困難であり、倫理的な問題を含む)。これは折木の「省エネ」などについても同じことが言える。だから僕はむしろ、そのような語を当初与えられていた登場人物たちの人生観が、どのような理由によってどのような修正をせまられ、結果としてどのように変革していったのか、あるいはどのようにしてその必要性をうしなっていったのかという、そのダイナミズムの方に興味を惹かれる。これは言い換えれば、小鳩が、あるいは小佐内が、自らの人生に起こった出来事と自らの人生観を照らし合わせ、合理的な判断のもとに人生観を変更していくという無限に繰り返されてきたプロセスの総体のことである。あるいは、コミカライズ版『春期限定いちごタルト事件』『夏期限定トロピカルパフェ事件』の原作者あとがきにおいて、複数回にわたり米澤がマックス・ウェーバーを引いていたことを思い返せば、これは学問のプロセスにも似ているという気もする。『職業としての学問』を読んだので、これから『職業としての政治』も読むつもりでいる。

それは敗北ではない。学問は時代遅れになることを自ら欲するのですから。

book.asahi.com

ともあれ、〈小市民〉では巻を追うごとに小鳩と小佐内の人生観が随時更新されている。『春期限定』では、冒頭から小鳩と小佐内は「小市民」というスローガンを掲げたものの、そのスローガンでは結局みずからの性向、欲求を飼い慣らすことができない。その過程において、小鳩は小佐内のことを助けるために堂島の助けを借りようとするが、堂島はいちどはその頼みを以下のように断る。

それが、どうした? いまの話はお粗末にも程がある。お前にはそんな気はなかったかもしれないが、いまお前がやろうとしているのは、『都合のいいようにひとを踊らす』ってことだとわからんか。

小市民というスローガンの持ついびつさが『春期限定』中もっとも(少なくとも作中において)客観的に指摘されるシーンはここだろうと思う。ここで小鳩は、(勝手に自分たちで定めた「小市民」であるという目的のために本来互恵関係という名のもとに遠ざけようとしてきた)「他者」の力を、理由を曖昧にしたまま借りようとしている。堂島はこの小鳩のスタンスを、以前の小鳩の姿と比較して批判している。

 なら、なおさら、考えろ。お前はそっちが似合ってる

(中略)

 前のお前は嫌なやつだったが、俺は、嫌いじゃなかった。……小市民とやらになりたいなら、なればいい。だがな、俺はそんなやつの頼みを聞くのはごめんだ。

〈小市民〉シリーズにおいて、地の文と小鳩の内心をどれだけ一致させて読んでいいものかは悩ましい。しかし、少なくとも小鳩はこの時点においては、堂島の言葉を容れている。結果としては詭弁に近いようなオッズの議論に基づいて堂島を説得するものの、そもそもそのような形で堂島を納得「させなければならない」という判断に至ったことこそが、小市民的世界観における平板で一面的な「他者」像の中で、少なくとも堂島の周辺においては不均一性を認めたということの表れなんじゃないかと思っている。こうした限られた特異点が、のちの互恵関係の解消を導くための伏流した補助線となっているとも思う。

この、(小鳩の視点においては堂島という特異点を加えられた)平板的な他者像は『夏期限定』にも引き継がれる。小鳩は『春期限定』において、悪い言い方をすれば堂島を「操って」自らの意の沿うように動かそうとしたが、これは小佐内が復讐を行う際、自分の周りの他者を動かすことによって目的を完遂することが多いところと似ている。こうした他者像は、互恵関係を結んでいる相手を完全に理解しているといいきることと表裏一体である。

ぼくが思うに、これは小佐内さんを信じ抜くことで片がつくだろう。

小佐内が巻き込まれた事件と、その裏側にある小佐内の思惑を見抜こうとした小鳩はこう発言したが、しかし、(これについても、小佐内の発言をどこまで字義通り読んでいいかは場面によって異なるとは思われるものの)小佐内の真意は小鳩の想定の届かぬところにあった。

わたし、怖かったの。

小鳩は小佐内がどのような人間なのか、その見積もりを誤ったとも言える。いや、見積もろうとしてすらいなかったのかもしれない。「信じ抜く」という言葉が発せられた背後には、小鳩にとって小佐内もまた他者であるということ、そして、他者という存在が根本的な計り知れなさを持っているということを、互恵関係という言葉が覆い隠していたという事情があったのかもしれないし、小佐内が

ほらね。わたしたち、さよならしようってお話を自分勝手に切り出されても、痴話喧嘩もできないの。それが正しいか、妥当なのかで判断しようとしてる。考えることができるだけ。

(中略)

 ……ずっと一緒ってわけには、いかないから。

と語るように、小佐内の側にもまた、小鳩という他者の計り知れなさを見誤った部分はある。しかし僕たちはすでに、そのような過ちを糾弾する別の言葉を知っている。

あなたちょっと、わたしを冷たく見積もりすぎじゃないの!

米澤穂信さよなら妖精

ただ相手のことを誤解するというだけではない、互恵関係という建前のうらで自らの欲求を慰めたり、他者が人生をかけた(かけてしまった)理念に基づく旅を、自らの閉塞的な生活の風穴と誤解してしまったり、それ自体は仕方ないこととは言え、それらは構造的な背景をともなって他者を軽んじることにつながりうる。そしてそれは、他者に「手を伸ばす」ことを怠ったところから始まっているのではないかと僕は思っている。

『冬期限定』を待つ間、『秋期限定』のラストの印象深さのことをよく思った。

たったひとり、わかってくれるひとがそばにいれば充分なのだ、と。

かつて「小市民」というスローガンと、目の前の他者が当たり前に持つ他者性から目をそらすことを許され続け、こうしてついには破綻した二者関係が、相手が自らにとって欠かせぬ存在であると認識するといういわば最も初歩的なステップを踏み出すことによって回復しはじめる。『さよなら妖精』は破綻で幕を閉じた。〈古典部〉は逆に、他者に対する眼差しをすでに前提とした上で、人生観の変遷が描かれている。ゆえに『秋期限定』のラストの忘れ難さは、他者を他者と認め、関係を結ぶという、人間同士が交わりゆくというダイナミズムのその一番はじまりにあるもっとも基本的な構成要素を、とうとう小佐内と小鳩が結び得たという、原始的な力強さ故に生まれているのかもしれない。もしかしたらその未熟さにこそ着目する人がいるかもしれない。しかしそれは焚き火に火をつけるためのマッチのような未熟さである。その明るさを書くためには、いちど夜の帳が下ろされている必要がある。暗闇に慣れた目にとってその明かりは眩しいかもしれない。そのような意味において、小佐内と小鳩はふたたび、ひとりとひとりとして、二人の他者として、出会い直したと言えるかもしれない。

小鳩と小佐内の人生観はシリーズを通して暫定的なものであり続け、修正を重ねられ続けた。それは『秋期限定』でも同じだろう。二人が『秋期限定』でたどりついた結論を僕はずっと祝福してきた。彼らが

やっとぐるっとひとまわり

してたどり着いた場所を、僕はたしかに愛おしいと思った。しかし、『冬期限定』が訪れるとわかった以上、『秋期限定』の結論もまた暫定的なものだろうと思う。なにより小鳩はこう言っている。

お互いの美学をわかり合うには、まだもう少し時間が必要だ。

必要だった時間が十分に与えられた時、どのようにわかり合うのか、具体的な予想めいたことはしないようにしようと思う。しかし、彼らは互いを他者として認める準備が整っている。したがって、たとえば、二人はこれから互いに手を伸ばし合うだろう。あるいは、互いに伸ばした手が結ばれることがあるだろう。それが、自分以外がすべて他者であるようなこの世界という環境の中で、ひとりとひとりが寄り添って生きていくために必要なことであると二人はすでに知っているからだ。あるいは二人がやがて道を分かち、ひとりとひとりとして生きていく覚悟が求められた時、そのことが彼らの背中を押すだろう。なぜならそれは、幾度となく修正が重ねられてきた人生観の記憶であると二人は知っているからだ。いずれ二人はまたそれぞれの、暫定的な結論に幾度もたどり着くだろうと思う。そしてそれらが暫定的なものである限りにおいて、二人は大丈夫だろうと思う。遠回りをするかもしれない。また傷つくときが来るかもしれない。しかし、ふたりはなんとかやっていけるだろうと思う。なぜなら、手はどこまでも伸びるはずだからだ。

 

(敬称略)

*1:Keynoteで描いてみて思ったが、これはコンピューターサイエンスの研究者であるMatt Mightが書いたかの有名なKeep Pushingの図に似ている