『アオのハコ』を読んだ

めちゃくちゃいいぞって誰かが言っていた。だから、自分も読もうと決めた。

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音楽でもいい、ゲームでもいい、もちろんスポーツでもいい。なにか恋愛とは別の語を用いて表されるなにかを扱う作品において、登場人物間に恋愛関係を設定することはこんにちごくありふれた光景である。そして、ごくありふれているからこそ、もとよりそこに存在していた恋愛とは何か違うように思われるそれと恋愛との位置関係はぼんやりと不可視化されやすい。

そして、ふと時折立ち止まってみると、まるで自宅へ帰る道がときおり遠く知らない国の路地みたいに思えるみたいに、そのことが急に不思議に思われてくる。その二つはいかにして、同じ作品の中に自らの居場所を獲得し得たのだろうか。

一方で、すべての言葉は恋の隠喩であるとでも主張するかのように、稠密に恋愛の話をし続ける作品もある。恋愛の味を説明する。そう言い置いて、ひとくち恋愛を口に含む。つながろうとしている。開かれようとしている。つねに届かない。かつては届いたことがある。飛び石。濡れた靴。乾こうとしている。かつて川を渡れなかった。

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僕ははっきり言うと、そのような作品のことが少し苦手だと思うことがある。かように簡単に恋愛という概念が(作品の中の)別のものにも侵入してくる現在にあって、一切のエクスキューズを欠いた状態で語られ続けると言うところに、どうしても重大な見落としがあるのではないかと言う気がしてしまう。あるいは、そのような語り方を全うしようとする時、その思想や姿勢自体が、かえって人生と恋愛とを同一視するための実験として機能してしまうから、逆説的に、人生における他の事柄と恋愛との距離感についての思想となってしまう。そして、稠密に恋愛の話をし続ける作品は、現にそうした実験じみてはいないのだから、稠密に恋愛の話をし続けられると言うところに逆に不十分さを感じてしまう。実のところは違って、単純に目の前の作品にキュンキュンできないと、却ってそう言うところが気になってしまうというだけなのかも知れない。今後の展望としましては、ラブコメを読み続けていくことでそれを確かめていきたいと考えております。これで私の発表を終わります。ご質問がある方はいらっしゃいますか。あ、〇〇先生、お願い致します。

例えばここに、部活でバドミントン漬けの毎日を送りながらも、好きな人のことを考えているひとりの人間がいるとする。その人の好きな人は、バスケットボールの選手で、中学の引退試合で負けた翌日、泣きながら、それでもシューティングをやめることができなかった人間だとする。バスケットボールが上手く、チームの主力として活躍し、その人柄から学校内のいろんな人から慕われていて、毎朝いちばんに体育館に現れる。その背に追いつこうと、バドミントン部のその人もまた、体育館に一番乗りをして、練習をしている。訳あって、バスケットボール部のその人は、バドミントン部のその人の家に居候することになる。一つ屋根の下に暮らすからこそ、そこには気遣いが生まれ、好きだと言う気持ちを隠したまま、お互いが最も大切にしているスポーツのため、共に早起きをし、共に励まし合い、共に悩みの存在に思いを馳せ、そうやって暮らしていくとする。お互いがお互いの上達と、試合での成功を望んでいる。それはなぜか。バドミントン部のその人は、自らが追う側の人間だと言う自覚を持っている。そこに思い込みに起因する非対称性が生まれる。違う。みずからの道を進むとき、夜道、暗い中、遠くにランタンのあかりが見えるとする。ランタンのあかりに惹かれて、二人は合流し、同じ道を歩き出す。二人はある意味では、お互いがお互いの似姿である。その時、その道行きが偶然重なる者同士、互いの旅の安全を祈るのに似ている。重なった道のりの上で、恋愛とは最初は近づきたい気持ちを生み出す機構であり、やがて互いの旅の安全を祈るものへと変わる。そのダイナミズムだ。そのダイナミズムによって、恋と人生はやがて不可分になる。バスケットボール部のその人、鹿野千夏は、一緒だ、と言う。恋愛とバスケットボールは不可分であり、いまや一つのものになったのだと宣言する。それはまた、バドミントン部のそのひとにとっても同じことだろう。

アオのハコはそのようにして、恋愛と人生とを混ぜ合わせる。