よりもいを観たあとの書き殴り

「お前はよりもいを観ろ」「なんでオーロラの件りばかり知ってるんだ」と言われて、ずっと観るぞ観るぞ言っていたよりもいをとうとうさっき観た。(南極へ向かうわけではないが)船の中で観たのは、それが作品における四人の旅路とリンクするからと言うわけではあまりなく、一気見するためにネットを断ち、集中できる時間を作り出す格好の機会だったからだ。

 

例えば『猫の地球儀』みたいに、どこかを目指す人格が存在し、その人格の目指すところが世間的に笑われるほど馬鹿げていたりあるいはあまりにも日常的な生活のスケールを逸脱しているがゆえに周囲の人物に現実感や共感を呼び起こさず、したがってそれに内面的な理由から共感し向き合える人物が特別な伴侶あるいは敵となってついには目指している場所にたどり着く。そう言う話に触れると泣いてしまう。あるいはもう、誰かがそこを目指す。そしてたどり着く。たどり着いたことを、時間的・空間的に離れたところにあるひとが知り、思いを馳せる。それだけでよい。その骨子のなにかが心を無理やり震わせる。船、手紙、車、呪い、ラジオの声、レコード、渡り鳥、メール、地球の回転。思い出してみる、そしてなにか共通点を探してみる。

南極は、いまや金さえ出せば旅行ツアーが全て旅程を組んでくれる観光地の側面を持つようになった。アムンゼンが、白瀬が、あるいは挫け、あるいはたどり着いた時代はそのような場所ではやや色が薄れ、パタゴニアの先から最短距離でペンギンに会いに行くことができる。そうであることを知らなくても、南極観測隊の前につく第N次の数字Nがいまやひとの人生のスケールに匹敵せんほど大きな数字になっているのを我々は知っている。そこに安定性を見出す。だからこそ、百万円と言う数字が大きく、その大きさにむしろ無知さ、一本槍の意地がどこかで抱え込んでしまう無邪気さが反映されていることをかぎ取ってしまう。あるいは、高校生活になにも特別なことがなく、なにかここではないどこかへ、個性的な体験を求めてしまう心の、あるいはひととの触れ合いを欠いてきたがゆえにその特別性に酔いしれてしまうことの、どこかに危うさの影を私たちはかぎ取る。作中でも繰り返し挿入される壮絶な一場面は、その大陸がなにもせずとも安定的な環境を与えてくれる場所ではないと言うことをいやでも想起させる。そこにたどり着くために人生をかける必要があるのだと言うことを、名のある、あるいは名のない登場人物たちは示している。そこでは、体験に伴う個性への憧れは棄却されている。青春をそのような個性と切り離せないものだと考えたまま南極に向かう高校生に対して、ウェーバーならザッへへ帰れと言うのではないか。個性的な体験ならいくらでも代えが効く。そこに人生(それは高校生にとっては定期テストや受験や単位、出席日数、卒業を意味する)をかける必要はない。既存の人間関係の中に帰り、個性的な旅のいくつかを誇りながら生きてゆけば良い。そこで得られる満足感というものがある。ハリのない色彩で描かれる教室の中にはそのような幸福もあるのではないか。

そして、この作品はそれを許さない。

心の一端をすでに南の果てに縫い止められてしまった人格は、いくら危うくても、もう南を目指すしかない。そこに個性を、特別さを、あるいは人間関係の憧れを見てしまったなら、旅の道連れとして南極へと向かわねばならない。それは四人それぞれがそれぞれの形で人生を賭けなければならないことを意味する。極地に近づくにつれ荒れ狂う気候や海流は、人格を持たない故に四人の持つ人間性を蝕む形で選択を迫る。身体を通じて人格を侵し、人生を賭けねば通れぬバリケードを敷く。それは、人生を賭けねば届かない南極の地を、個性や体験を求めて近づく者たちから守るためでもある。そのような中で玉木マリの発する「他の選択肢はあった。自分で選んでここまできたのだ」という言葉は、地理的な広がりの中から一点を選んだというだけではない。それは、四人がそのような生き方をすることを、とうとう選び、勝ち取ったのだと言うことも意味する。そこで初めて四人は南太平洋の水に体を濡らすことを許される。あるいは、そのような覚悟がなければ、吹き荒れる風も、白波も、あるいは海水の塩気も彼女たちの前に姿を現すことはしなかった。こうして彼女たちはようやく「船に乗った」。船は、目的地に着くまで、途中で降りることは許されない。海上という人間の生活圏の外側をどうにか生きて渡っていくための乗り物だからだ。船に乗ったなら、どうあれ、もう目的地を目指すしかないのだ。氷に閉ざされた海であっても、その船で進むしかないのだ。四人は他の隊員たちと重なる生き方を選び、それ故に砕氷船の進行を応援する権利を得た。船は下がり、全速力で前進する。生者も、そして死者も、等しくその船の背中を押す。南極にたどりつかねばならないからだ。

そして船は南極にたどり着く。しかし南極もまた、幾重ものレイヤーが重なって、再び幾人かにさらに人生を賭けるように要求する。南極の景色の無機質さと、それ故に持つ美しさは作中で繰り返し言及される。氷や岩や空や水や、様々なものが生命を、すなわち人間性を拒絶する形で描かれていく。昭和基地には暮らしがあり、人がおり、それ故に汚れた氷や焼却されたゴミが存在する。四人がかつて倦んだ日常の外側にあったはずの南極の外側にはさらに、人間性がかろうじて保持される場所と、人間性が極限まで排除される場所が存在することが示唆される。そして人間性が排除される場所とは、四人が、それを取り巻く大人が真の意味で目指していた場所でもある。そこへ向かうと決めること、あるいは実際に向かうことは、自らの持つ人間性を限りなく棄却し、そのような状態に身を置いてもなお、ひと握りの人間性を捨てずに持ち続けることである。そこで再び、すべての余計なものを取り払った上で、原初に存在した目的だけが浮上する。報われるかどうかわからない、それまでの努力が全て水泡に帰すかもしれないと分かっていながらも、その目的に賭けることは、さっきの言を引き継ぐなら、ウェーバーの言っていたことと似ている。ここで、人生を賭ける前の四人の人生と、賭けてしまった、生き様が決定的に異なってしまった後の四人の対比が完成する。報われるかどうか、その不安を振り切って一心に向かったものだけに訪れる偶然が、見える地平が存在する。ことここに至って、事態は本当に賭けの様相を呈する。人生を賭け金にして、縫い止められた魂の一端を解きにいく。解けるのか、解いたらいいのか、わからないものならば行かない方がいい。たとえば隊長はそう言った。思い込みだけが現実の理不尽を突破する唯一の道だと。四人はこの生き方を選択してしまった。個性を、体験を、人との特別な関係を、そのような曖昧なものたちに曖昧な一義性を見出していた頃から、無限の選択肢の中からひとつの生き方を選び取ったのだと四人は自覚した。それは多様な生き方の可能性を知った後でないとたどり着けない帰結である。思い込み、一位専心に自らの目標に向かっているだけでは得られない実感である。そのようにして視野がひらけた後で、しかしそれでも再び必要になるのは、思い込みであり、がむしゃらさなのだという。百万円と言う金額の持つ無邪気さは、ここで再び彼女の背中を押す。それは彼女の思い込み、彼女のがむしゃらさの地層である。万札一枚を重ねるごとに彼女の人生も積み重なっている。人生の賭け方を知らなかった彼女がそれでも持ち続けたエネルギーはそのようにして時を超えて回復される。ずいぶんとぼろぼろになったものだ。百枚を数えれば百枚分の思い込みを再び手にすることができる。

そして賭けに勝てば、数え上げた分だけの報いがある。ここ地球上でもっとも人間性が失われた場所で、彼女たちは、それでもなお人間性を回復することができる。人間的な領域と非人間的な領域の境目に立ち、その極限から、非人間的な方へと手を伸ばしてみる。その想像力が新たな人間性を手に入れるための核となる。それが彼女たちの生き方となり、あるいは旅のあり方でもあった。その過程で、原初の目的を超えたところで、彼女たちはそれぞれ自らの生を肯定する道を見出した。百枚を数え上げれば千の数を積み上げたように、あるいはその返事として、なによりも愛おしい一を手に入れたように、彼女たちは自らの選び取った生のあり方を肯定するに至った。そして、それはおそらく可塑性を持たない。彼女たちは確信している。再び自分たちは集まり、そして旅に出るだろうと。彼女たちの確信を通じて、フリーマントルでの一シーンと同じように、作品は私たちの背中をぶっ叩く。旅に出ろ。お前らの人生を選び取れ。そうやって発生する生の形の不可逆な変化を楽しめと。例えば僕がこの作品を観終わってずっと背中を丸めて泣いていたのは、そのメッセージの途方もなさゆえなのかもしれないと言う気がしている。